コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

支持率

 NHKだけでなく、各新聞の世論調査を見ていたら、いい加減で信用がならない。新聞によって、みんな違う数字が出る。統計の嘘という本もあるが、今回の菅新総裁の自民党の支持率調査なのだが、日経新聞では74%、朝日新聞では65%と、そこには開きがある。サンケイは見ていないが、右寄り左寄りで自分たちの主張の都合のいい数字に捏造しているかのようだ。アンケートの取り方にも微妙な違いは出てくる。
 前にわたしが幹事をした懇親会があって、それは私的なものだったが、あちこちの文学サークルに出欠の往復ハガキを送った。それには、〇をつけて返信してくださいと、書かれていたが、選ぶ項目は二つよりなく、「出席します」と、「欠席しません」のどちらかに〇をつけて出してくださいというものだった。見た人は笑う。どっちにつけても出席だ。だけど、どうしても行けない人は、欄外に、別に欠席しますと書いてきた。それは冗談で、許してもらえる悪ふざけであったが、アンケートの内容では許されない。政策に期待が持てそうだから。他に支持する政党がないから。人望がありそうだから。どうでもいいから。とか、並べて〇をつけさせても、結果は支持となる。仕方がないから支持と消極的な人まで取り込む。どうでもいいことを聞くなよと怒りたくなる。頭のすげ替えだけで、つい昨日まで、支持率が3割台であったものが、どうして倍以上になるの? もし、それが本当なら、国民の多くがバカばかりということになる。気分だけで右往左往している。そんな不安定で気分屋の国民が多い国にいると、政治なんか芸能界の紅白歌合戦に見えてくる。どうでもよくなる。
 政治世界もぶれるが、有権者もぶれる。信念もなく、筋を通さない気分だけの人のなんと多いことか。
 かつて、中国で、毛沢東の軍隊と蒋介石の軍隊が、内戦を繰り広げ、ひとつの町を取ったり取られたりしていたとき、わたしの母親は旧満州に取り残されて、本国に帰れる日を新京で待っていた。そのときの話をよく聞かせられた。中国人も日本人と同じで、日和見主義ばかりで、毛沢東が勝てば、万歳と歓迎し、蒋介石が勝てば、また万歳と向かい入れた。どうでもいいのだ。どっちでも、早く勝った方が治めて、平和になってほしいと願うだけなのだ。それと、いまの日本は同じだ。どっちでもいいから、日本をよくして暮らしやすくしてくれないかと、国民は幕末のように、ええじゃないかとまでは行かないが、人によっては官軍であろうが、幕府側であろうがどっちでもいいという人が多いから、ふらついている。


 支持率調査はわたしは見ないことにしている。信用がならない。何かあれば、すぐに上がり下がりする、わたしの血圧みたいなものだ。高いときに病院に行って、医者から糖尿病と言われる。またかと、その冤罪のために薬を飲ませられる。ストレスで上がる。平常は下がっている。たまたま、具合が悪いから病院に行くのだ。十数年前までは、90に年齢を足したものがその人の正常な血圧だと聞いていたのが、いつからかどんどんと基準が下がり、いまや130以上が高血圧と、薬を飲ませられる。いつから下がったのだ。そうすると、多くの高齢者がそれに引っかかる。ほとんどが降圧剤などの薬を飲ませられる。医療費が下がらないわけだ。医者と薬剤メーカーの陰謀と思うよりない。
 という血圧の話ではなかった。支持率はいい加減で、株価のように景気に関係なく、上がったり下がったりと、気の部分が多い。それを巧みに利用したのが小泉内閣であった。劇場型に有権者を引き付けた。
 劇場といえば、しばらくぶりで見たテレビドラマの半沢直樹だが、見ていて恥ずかしくなる。あれが視聴率が高いとは、見ている人のレベルが判る。勧善懲悪の歌舞伎の見得ではないか。水戸黄門の「この紋所が見えないか」ではないか。幼稚な大衆芸能がもてはやされるのは、しらけてしまう。それに拍手喝采をする人たちが、支持率を動かしている。半沢直樹のような政治家が出たら、総理大臣でも一人舞台で、他の政治家に白い目で見られ、テレビの世界とは逆になりそうだ。支持率とは、私事率のことで、自分にプラスになるかどうか。
 世の無党派層はどうでもいい人たちのことだが、わたしの場合は、医者に糖分を摂るなと言われて、無糖派層になるらしい。

ベートーベン生誕250年とか

 クラシックファンではあったが、最近は遠ざかっていた。気持ちの余裕がなかった。仕事と私生活の往復で、暇があれば、テレビを見たり、スマホでネットを見たりと、音楽はラジオをたまに起きたばかりの休みの朝に聴くだけだった。テレビでも、日曜クラシックはたまに見ている。それで知ったのだが、今年はベートーベンの生誕250年で、ベートーベンのプログラムはどうしても多くなりそうだ。
 千葉の図書館に通って、音楽CDを借りることを忘れていて、先月からまた借りて聴き、録音することにした。音楽を忘れるほど忙しかったのが、コロナで家にいる時間が長くなると、そうだ、クラシックをまた聴こうと思い出した。
 クラシックでは、好きな作曲家は誰ですかと、よく聞かれる。そのときにベートーベンというのが恥ずかしい。好きな作家と聞かれて夏目漱石と言うのと同じで、そうか、この人はその程度かと思われたくない気持ちがどこかにある。よく、初心者はベートーベンから入り、クラシック入門で憑りつかれ、ずっぷりと入り込むようになると、ベートーベンからは少し離れ、いろんな曲を聴くようになる。そして、最後はまたベートーベンに戻るとよく言われる。いいものはいいのだ。そのよさを再認識する。それと、年齢で、聴くものが、違って聴こえたり、若いときは響かなかったのに、心の琴線に触れて、改めて感動するということもある。人生経験も違うし、年老いてくると、ちょっとしたことで涙ぐんだりと、若いときとはまた違う感受性ができるようだ。
 わたしが若いときに聴いたベートーベンでは、交響曲の中では6番の田園と7番が好きで、聴いた曲のうちお気に入りをノートに書き連ねていたが、その中には、この二つが入っている。それとピアノ協奏曲では3番のハ短調が一番好きで、冒頭のテーマをよく口ずさんでいた。子供のときに、親がステレオを買って、応接間にでんと置いた。レコードはクラシックばかりだったが、その中にケムプの弾くベートーベンの三大ピアノソナタの月光・熱情・悲愴が必ずカップリングされているのだが、それと、ブルーノ・ワルターのコロムビア響とのベートーベン交響曲全集のボックスがあり、そればかり小学生のときから繰り返し聴いたもので、耳から離れない。初恋の人がピアノを弾く中学生で、親父の親友の娘であったが、札幌の藤女子に通学していた。彼女と趣味を同じにしようと、通っていた教会にあるアップライトピアノでバイエルは40番くらいまで友人と二人で練習したが、自分には音楽的才能はないと、途中で諦めた。独学の壁にぶつかる。友人は才能があった。同じ高校生で独学して、東京の音大に入り、それから帰郷してからは地元青森の高校の音楽の教師をして、いまは定年退職はしたのか。彼のお誘いで、年末に青森市でもやるが、市民による第九の会にも入って、第九の合唱をバスで参加した。四か月、仕事が終わってから市民会館に寄って、ドイツ語の楽譜にルビを振って、発声法からやらせられた。声楽なんか嫌いだったが、市民交響楽団の後ろで、昼間と夜の二回の公演に、礼服と蝶タイをして出たときは緊張したが面白かった。いい経験をさせてもらった。
 ベートーベンはベートーヴェンといつも書いていた。いまはベンと書くのか。他に好きな曲はエグモント序曲、ピアノソナタではニ短調のテンペストも好きな曲でよく聴いた。声楽曲と合唱曲も多いが、わたしはあまり好まないので、ノートには書かれていない。
 思えば、ベートーベンで好きな曲というのはそれぐらいよりない。ブラームスとモーツアルトのほうが好きなので、それよりは多い。
 今年の春にヨーロッパ旅行をしてモーツアルトの生まれたザルツブルグには行く予定でいたが、ドイツにも寄っても、ベートーベンが生まれたボンには行く予定はなかった。まだブラームスが生まれたハンブルグのほうは北のほうで、ちょっとコースから外れるが、そのうち行ってみたいとは思う。
 若いときとは違って、クラシック熱は冷めていた。コンサートにも行かない。N響の会員でもあったが、いまは新聞広告で、聴きたいものがあっても行かないし、新譜のCDが出ても買うことがない。ラジオで聴いて終わりだ。飽きたのではなく、のめりこむ情熱がなくなっただけのことだ。ギターもチェロも手放して、またやってみようとは思わない。音楽は卒業したようなものだ。いまは生活のBGMで流れていればそれだけで満足だ。

寒暖差アレルギー

 アレルギーは自分にはないと思っていたが、どうも鼻水が止まらないので、その原因をつきとめてみたら、エアコンが関係しているようなのだ。エアコンをつけたら、あるいは、空調の効いた部屋や建物に入ったら鼻水が止まらなくなる。だけど、電車の中は冷房が効いているのに鼻水は出ない。それは、マスクをしているからだ。
 熱いラーメンを食べていると鼻水は出る。そのため、ラーメン店では、カウンターにティッシュの箱を置いているのはそのためだ。熱いものと冷たいものの差で鼻水が出る寒暖差アレルギーと知ったのは何年か前で、よくあることなので、ネットで調べたら、薬はないようで、誰でもなりやすいという。別に病気でもないようで、生理現象なのか。それでも止まらないから困る。
 九月に入り、中頃になると、暑さもようやく峠を超えて、最高気温も20度台になる。それでようやく、部屋のエアコンのスイッチを切った。いる間は、ずっとつけていたが、そのたびに鼻水で参っていた。止めて窓を開けて風を入れたら、ぴたりと鼻水が止まった。
 それまでは、ティッシュの箱が空になるほどで、屑籠が山になる。ゴミが増えたから、捨てるのも大変になる。かさばるから、大きな袋でないといけなくなる。ならば、トイレットペーパーで洟をかむ。それならトイレに流せる。ティッシュをトイレには流せない。ティッシュの箱にも書いているが、トイレが詰まるのだ。水溶性ではないから、溶けないで詰まる。前に青森の古本屋ビルで生活していたときに、トイレットペーパーを切らしたのでティッシュの箱をトイレに置いて使っていたら、トイレが詰まり、大変だった。たまたま外のマンホールも詰まり、それが市役所の管理なので、電話をしたら、バーキュームカーが2台も来て吸い上げて、詰まりをとってくれた。まさか、ティッシュのせいだとは言えなかった。


 トイレットペーパーの消費量が急に増えた。2月に千葉に越してきてから、12ロールのトイレットペーパーを使い切るに一人で、家のいるのが半分ぐらいしかないので、4か月かかった。それが夏になりエアコンを使い始めると、倍速でなくなる。鼻水ですぐなくなるのに驚いた。紙の節約のために鼻穴に紙を詰めたりした。くしゃみもすごい。これが電車の中でくしゃみをすれば、コロナのときで、みんなの怖い視線が集まりそうだ。それで、ぐっと我慢する。くしゃみを飲みこむ。飲んだくしゃみは、胃腸を通って、下から屁になるとか。まさか。下からくしゃみはどんな音がするのか。
 一度、職場で、だらーんと鼻水が出た。いつもポケットにはティッシュを何枚も入れているのだが、そのときはなかった。先生たちも帰った夜なのでよかったが、巡回で校内を回っているときだった。鼻水が伸びて床につくところをすすると、また引っ込むが、まただらーんと伸びる。それはヨーヨーのように面白い場合ではない。学校のトイレに飛び込んで、トイレットペーパーで寸前のところで抑えた。
 マスクをしていれば、寒暖差がなくなり鼻水が止まるので、できるだけマスクをしているが、仕事中は暑いのでつい息苦しく鼻を出している。それでまた鼻のセンサーが感知して、ずるずると出る。水分が不足するのではないかと心配もした。鼻水が一体、どれぐらいの水分の量で出るのだろうか。その分は補充してやらないといけないのではないか。


 人間の体の不思議を考える。温度に敏感なのはどういう仕組みになっているのか。汗は体温調整で出るのだが、鼻水もその役割なのだろうか。健康なときは、洟なんか出ないものだ。日頃はティッシュのお世話にはならないから、五箱セットを買っても半年以上はもつのだ。わたしはあまりティッシュは使わないようにしている。よく、テーブルが汚れてもすぐにティッシュという安易に使う人がいるが、台拭きがあるじゃないか。洗えるもので掃除するのが本当だ。紙も資源だから、あまり頻繁に使わないようにする。トイレットペーパーは仕方がない。お尻を拭くのに、田舎で昔したように、トイレに砂箱を置いて、木の枝を刺して、それでぬぐうとか、藁の束で拭いたりしていたときにはわれわれは戻れない。
 とまれ、これからはエアコンは使わないので洟は出ないだろう。マックにコーヒーで寄っても、紙ナフキンの使い過ぎで申し訳ない。それにしてもどこから出るのか、鼻水。どこか水漏れしているかのようだ。