コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

速読の癖が直らない

わたしは活字中毒ではなかった。読書は普通の学生ぐらいであったろうか。大学生のときの本棚はひとつだけであったので、おそらく300冊も蔵書はなかった。それが四年間で読んだ本なのだ。一年に百冊も読まない。五日に一冊ぐらいか。それが、青森に戻り、親父の仕事を手伝うようになり、赤字で追い込まれて、なんとか倒産させまいと、札幌進出して、北海道開拓に行った30歳のときであった。仕事はうまくゆかなかった。何をさせても甘く、手ぬるいから、失敗ばかり、店を出しては閉めてと、逆に本社の足を引っ張るようになり、社長である親父とよく電話で喧嘩をした。


そんな精神的にも詰まって懊悩していたとき、出口を求めて配達途中の札幌の古本屋にふらりと入ったのが昭和58年の春だった。雪解けの時期で、路肩には残雪がまだあった。そんなときに三男が札幌の琴似の病院で生まれた。それからが不思議だった。まるで答えを探すように、いまの自分に欠けているものはなんだと、何が間違っていたのかと、本に回答を求めるように安い店頭のゾッキ本ばかり買いまくる。100円で五冊の文庫本が多かった。社員の給与も遅配されているとき、支店長のわたしは三か月も給与は出なかった。三人の子を抱え、親子五人が食えない羽目になる。女房は結婚指輪を質に入れようと言い、わたしはビデオカメラをリサイクルセンターに売りにゆく。毎日が素うどんばかり。お菓子のクズだけはいっぱい下の工場から出たので、子供らのおやつにしていた。


なんとか打開しなければと、必死で本を読む。誰にも聞けないことを本は教えてくれるかもしれない。学生時代に真面目に勉強していれば、こんな失敗はなかったかもしれないと悔やんでもし方がない。


朝9時前から下の洋菓子店の店に立ち、工場を手伝い、夜9時の閉店まで休まず仕事をしていた。それでも配達の車の中で本を読んだりしていた。信号で停まると本を開いた。店に立っても、仕事に関するビジネス書ならと、お客の来ない暇な時間に読んでいた。朝起きてからも何冊か、トイレで一冊、夜寝るときも何冊か読んで、一日10冊は読んだ。一度、どれぐらい読めるのだろうかと、朝は6時から夜寝るまでの12時まで、久々の休みの日に挑戦してみた。30冊ぐらい読めた。自分は無意識のうちに速読になってしまっていた。それは一種の強迫観念みたいな病気に近いものがあったろう。とにかく、読まなければと、次々に本を手にする。女房は初めは、こんなに本を買ってと、子供らに小遣いもやれないのに、あなたは自分の本ばかり買ってと文句ばかり言ったが、それもやがて諦める。青森に会議があって帰ったら、自宅の本棚から別宅の倉庫に仕舞っていた親父の蔵書から本を選んで、札幌に送らせた。苫小牧の姉の旦那が亡くなったときは、おいおいと泣きながら、義兄の本棚から本を箱に入れて車で札幌にせっせと運んだ。義兄は生前にわたしに本はみんな持ってゆけと言っていたのを遺言のように思った。それで札幌の社宅は本でいっぱいになる。女房は初めは、何冊あるのかと数えていたのが、もう数えるのがアホらしくなり、廊下から階段へと本が占拠してゆく。三年後、青森に引き上げるときに、引っ越し荷物でりんごのダンボール箱に100箱くらいあったろうか。


それらが元になり、わたしは古本屋をやるようになる。洋菓子店が倒産し、わたしら親子が破産した後も、それでなんとか食べてこられた。古本だけは差し押さえ対象外で、資産価値はゼロとみなされた。元々古本屋の店頭から買った安い本ばかりだった。


それからも読書は続く。古本屋の帳場にいると、どんどんと本を売りにくる。引き取りの電話も来る。本気違いのわたしにはうってつけの商売だった。店に仕入れた本を出す前に、自分で読みたい本は後ろの棚に入れた。それをお客が見て、「ご主人、あの本はいつ読み終わりますか」と、欲しがるのだ。それではいけないと、それからは読みたい本は図書館に行って借りるようになる。それならゆっくりと焦らないで読める。お客にせかせられて読むからますます速読になる。斜め読みで、スキミングという上辺だけ掬い取るように読むコツが自然と身についた。精読もしなければと、いま、その悪い癖を直そうと思うのだが、長年の悪癖はなかなかとれない。いまだに、図書館には三日に一度行っていて、一日三冊のペースだが、年とともに読むスピードは落ちたが、それでもじっくりということがない。これは病気なのだと自分でも思う。老後だから何も出口を探さなくてもと、自分に言い聞かせるのだが、いまは死ぬの生きるのという本を読んで、そろそろいつ死んでもいいようなお迎えの本を読んだりしている。それがいまの自分の課題図書なのだ。

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