平塚の花菜ガーデンまで遠足

キムヒロ

 平塚の北西にある神奈川県立花と緑のふれあいセンターの通称花菜ガーデンはいいところだ。わたしはこちらに来てから四回も行った。いつもは車で行くのだが、それなら10分も家からかからない。三連休の中日の日曜、孫とまた遠足をしようと、そこまで歩くことにした。たいした距離ではない。前日からお弁当を作って行こうと、冷凍の焼きおにぎりを買って、揚げ物などを揚げて冷蔵庫に入れておく。ドリンクもボトルに詰めて用意していた。できるだけ金は使わない。孫はそこは三度目だが、楽しいと覚えていて、また鳥を探そうねと言う。前は子供らの野鳥を探そうゲームをやっていて、園内をあちこち鳥の造り物が木に止まっているのを見つけるに走り回っていた。

 うちから北へと歩く。鈴川にさしかかると、その小さな川には鯉がいっぱいいて驚いた。孫と橋の上から数えたら50匹以上いる。それも大きなものだ。何十年もここで生きていたのか。鯉は長生きなんだと孫に教える。それを仕事中の息子にスマホで写真を撮って、LINEで送ると、「捕ってきて」と返信。鯉って食べられるの? そうさ、鯉のあらいと言って刺身で食べる。鯉こくという味噌汁もある。いまはこんなにいても誰も捕らないし食べないのか。

 その先にいまいという寿司屋がある。料亭のような造りで、庭がよく手入れされていていい。門も江戸時代からのものか、古い歴史を感じさせられる。そこで前に太極拳のメンバーと先生とで会食をしたことがある。料理はすこぶるよかった。

 東海道新幹線の下を潜り、小一時間かかってようやく田圃の中にある花菜ガーデンに着いた。ここのところは毎日孫と歩いている。万歩計が楽しみだ。連休でイベントをやっているのか音楽がすごい。ハローウィンのお祭りだ。芝生の広場に設営された舞台で、女の子たちが衣装を着て踊っている。孫と疲れたから、ベンチで休憩。それから中に入り、先に腹減ったと騒ぐ孫のために少し早いが、ガーデンテーブルと椅子に空席があったので、そこに陣取り弁当を広げた。真ん前にダンスが見えている。流れている歌は孫は知っていると歌っている。9月中はずっと長雨と台風で、天気は悪かったが、10月に入って二週目からは天気もよくなる。久しぶりの秋晴れだが、まだ半袖でいいくらい暑い。芝生の上にはテントがいっぱい。家族でシートを敷いて飲食をしている。シャボン玉が飛んで、ボール遊びにフリスビー。花という花が咲いている。行楽日和でよかった。

 孫は大食漢だ。おにぎり三個食べてグラタンとエビフライとチキンカツなどみんな一人で食べてしまう。それとおやつまで。ドリンクはたぶん足りないだろうなと、五本も用意してきた。それで背中のリュックが重いが、食べて飲んだら軽くなる。

 園内は何度も来ていて知っている。いまどきはコスモスとキンモクセイ、秋の七草と秋バラと、色とりどりだ。ぐるりと園内を一周する。あちこちにお化けや西洋の幽霊がいる。造り物だが、それと南瓜の偽物だろうか、大きいのから小さいのがハロウイーンの演出をしている。女の子たちも魔女の帽子をかぶって、コスプレしている。コスモス畑も人気で写真。おとぎの国のようなスモールハウスがあちこちにあり、そこに孫は入って遊んでいる。わたしは写真で忙しい。いいときに来た。ガーデンで一番お気に入りが、モネの睡蓮の絵のような池で、睡蓮は葉だけだが、そこにポプラが立っていて、水面に映っているのがゴッホの絵のようでもあり、なんとも日本でないような風景だ。よその子とお母さんが指さして、睡蓮の葉の裏にザリガニがいると教えていた。孫もどこどこと教えてくださいと聴いていた。わたしも目を凝らしたら、赤いハサミが見えている。何匹もいた。これはここで飼っているのと孫は訊く。まさか、自然のものだよ。何でも人工に慣れた孫は水族館と動物園と思っているのが可笑しい。

 バラ園はまだ咲いたばかりで少ない。そこの迷路も春に来たときはすごかった。秋薔薇よりは春がもりもりと咲いている。前は大きなトランプもあったのにいまはない。アリスの世界がそこにあり、隠れたトランプの絵を孫と探していた。南瓜は本物もあり、あちこちに置いてある。藤棚には上からぶら下がっている。トラクターにも乗れる。そこは写真だけ。やたらと大きな花は見たらタイタビカスと書いている。大きな花は牡丹もそうだが、あまり好きではない。ピンクの細かい花がふさふさと咲いている。あれは何という花だろうか。孫は気持ちよさそうに触っている。つい触ってみたくなるほど感触がいい。

 いろん展示室もあり、植物の由来や原料などのクイズもあって、それは前に孫もやっていたが、小学生になったら習ったものもあり当てていた。子供の勉強にもなる。

 ガーデンの隣にはあさつゆ広場という野菜などの直売所がある。いまどきは野菜は高いから、安いものがあったら買って行こうと覗いた。がらがらで売り切れ状態。前にも来たら午後は売り切れなのだ。それでも特産の幻の平塚クリマサリというさつまいもが安かったので、また大学芋でも作るかと買った。孫は焼き芋が大好きだ。こういうおやつならいい。

 

 帰り道は別のルートで歩いた。田圃では稲刈りの最中で、バインダーが稲を刈っているところを見せる。刈った後の田圃をトラクターですき込んでいるのも見せて教える。また川にさしかかると、今度は黒サギが水管橋の上にずらりと止まっている。孫が数えたら60羽以上もいる。シロサギは平塚市の鳥だが、クロサギもいっぱいいる。そこで質問です。クロサギとシロサギが結婚したら、何色のサギが生まれるでしょうか。孫はお母さんが黒なら黒が生まれるとそう言い張る。そうしたら黒と白が混ざったサギが飛んでいた。ほら、混ざったのもいるよ。そうやって途中の川沿いの公園で休んだりして、景色を見ながら、冒険探検も悪くはない。野外観察もいい勉強になる。ようやく家が見えてきた。万歩計は16000歩。いい運動にもなったな。

『ルポ被爆二世』を読んで

キムヒロ

 また図書館の新刊コーナーから借りてきた本のこと。小山美砂著『ルポ被爆二世』という本で、タイトルに惹かれて手に取る。広島と長崎の原爆被害はフェイクだと、バカなネットの書き込みがあって、そんな都市伝説のように書いている愚かな若者たちが問題になっていた。それと前には黒い雨訴訟があった。爆心地から離れていても、放射能をおびた黒い雨をかぶってそれで被爆したという事実も明らかになる。井伏鱒二の小説『黒い雨』でそのことは知っていたが、被爆の範囲は広くなる。戦後80年以上経っても、いまだに被害が報告されて、新しい事実が明らかになる。

 今度は被爆二世のことだ。それはわたしにも関わることなので、興味を持った。被爆二世というのは厳密には、被爆した時点で母親の胎内にいた人だけと思っていた。それが戦後、被爆した親から生まれた人もそう呼ぶようになる。わたしの最初の奥さんは昭和31年生まれだが、戦後10年して生まれた。母親は長崎医科大学で戦前から看護師をしていた。『この子を残して』を著した永井隆医師と同じ病院で働いていた。長崎の原爆投下の瞬間は、義母は病院の地下室で作業をしていて被爆した。義母さんから聴いたのは、地下室でも突然閃光を感じ、それから爆風で建物が崩落したと。その瞬間から意識がなく、壁が分厚い地下室で瓦礫の下敷きで奇跡的に救出された。爆心地から0.5というから500mしか離れていないところにいたが、普通は即死は免れない。それがいた場所が防空壕のように、地下であったのと堅牢な病院であったことが幸いした。負傷はしたが、命は助かる。多くの医師や看護婦、患者たちは即死した。

 戦後は原爆手帳を手に原爆病ではなかったのか、治療もすることなく生き延びたが、体の不調は続いて、医療費は無料なので、しょっちゅう病院の世話にはなったらしい。戦後は看護師は辞めて、佐世保の炭坑で働いていた人と出会って結婚、二男一女を授かる。まだ炭坑は景気がよかった。その宿舎で家族は生活していた。被爆二世という言葉はあったのか。だけど、そのころは長崎から嫁をもらうなと、密かな差別はあったようだ。コロナのときもそういう差別はあったし、らい病もそうだ。非科学的な迷信に近いものもあり、無知の輩からいまもネットでのヘイトが起きている。

 そんな元嫁とわたしが知り合ったのは、大阪は堺市の量販店であった。あれは昭和51年の春で、そのころわたしはニチイというダイエーやイオンのようなビッグストアの子供服売り場と販促と二足の草鞋を履いて、忙しく働いていた。隣のテナントは服地の店で、そこに新入社員が中途採用された。目が大きくエキゾチックな容貌が、どこか他の女子社員たちとは違っていた。男子社員たちは騒いだ。若い職場で、店長からして27歳、パートさんたちはお母さんたちだが、160人の従業員は平均年齢は若かった。隣同士なので、いつも目が合う。そのうち交際するようになる。互いの身辺は聞かなかったが、彼女はわたしに被爆二世であることを打ち明ける。それを言えば、いままでつきあってきた人がみんな離れたという。西日本は差別意識が高いのか、わたしは知らなかったが、部落差別もひどかった。市役所ではそういう職場の悲劇をスライドと映写機を持って啓蒙活動に回っていた。うちの店でも二部交代で時間をとって食堂に社員たちを集めて、市の職員さんたちが、差別撤廃を求めて自殺などの悲劇が起こらないように実例を挙げて説明していた。岡林信康の歌にもある「手紙」は、そのことを歌にした部落民差別反対のプロテクトソングだ。まさに、被爆二世たちの苦労はそういう結婚反対という親たちの差別にあった。それで部落の人たちのように適わない結婚で自殺をした事例も紹介された。

 ルポ被爆二世の本にもそのことが書かれている。被爆してから10年20年と経たないと、科学的な証明ができないくらい、まだ解明されない遺伝もあったが、チェルノブイリでもそうで、医師団がその後の経緯をデータ化している。

 わたしは彼女から泣きながらそう告白されると、ますますこの人を幸せにしてやりたいと思うのだ。不幸な人が好きで、いままでもそうだが、何かしてやりたいと、同情が愛情に変わってゆく。うちの両親にねぶた祭のときに青森に大阪から彼女を連れて帰ったが、親は結婚は反対であった。反対されて彼女の兄弟からも脅されて、その年の夏に名古屋に二人して駆け落ちをする。親はどう見たのか。確かに病的に弱い感じはした。体重は38キロで身長はあったからひ弱に思えたろう。大丈夫かと大阪の職場の仲間も話していた。虚弱体質で病気もする。わたしのアパートで何日も熱を出して寝込んだこともある。それが原爆と関係しているものか。

 ルポの本によれば、昭和54年の政府の調査報告では、被爆二世には原爆病のような症状は認められないと、普通の人と変わらないという医学的見地を発表した。そんなずっと後になって、ようやく世間の差別に対して異常なしと認定した。それでも一部ではそれを認めない。何か病気があれば、そのせいにしたがる。因果関係を求めるのは、難しいのはチェルノブイリもだ。子供らの白血病が増えた。それは事実で、わたしの青森の同人仲間の弁護士先生はじめ、チェルノブイリの会を作って、わたしの仲間たち何人もが二度も現地を訪問して義援金を渡していた。その報告書も本にして出した。『チェルノブイリへの小さな旅』金澤茂著で、青森・チェルノブイリ子ども支援ネット調査団して渡欧していた。

 原発事故でも長い被害が子孫まで及ぶ。それが広島と長崎でもあるのかという調査が長い年月をかけて行われた。

 長崎の義母さんは何年か前に90歳を過ぎるまで長生きして亡くなられた。佐世保で一人暮らしをしていたので、遺骨は青森のむつ市にいる前妻が引き取って、その後、墓はどうしたのか。元嫁もいまは71歳で再婚して元気でいる。彼女の兄弟も別に病気でどうのということもない。そして、うの息子たち三人も被爆三世なのだろうが、別に健康で大きな病気もしていない。因果関係を証明するのは難しい。当時は広島と長崎には百年は草木も生えないと言われたが、いまは大きな都市で発展して公園では草木も繁茂している。人もまたなんということもなく生きている。原爆は一過性のものなのか。原発事故はそれに比べて、いまも継続している。その怖さのほうが問題にされるべきだ。

相馬大作と日景さん

キムヒロ

 図書館で借りた小説に昔読んだことのある長谷川伸の『相馬大作と津軽頼母』があったので、懐かしく再読した。相馬大作とは下斗米秀之進という南部藩の浪士で津軽藩主を山中に潜んで爆殺しようとして捉えられる檜山騒動の歴史小説で実話だが、そこに興味深いことが書かれている。大館の釈迦内に住む富豪の日景八右衛門を相馬大作が訪ねてゆくのだが、そこは相馬大作の縁故であったと書いている。それであっと声を出しそうになる。日景さんは、うちの古本屋時代の古書目録をお送りしていたご常連のお客で、うちの親戚筋に当たっていたのだ。本の好きなおじいちゃんで、苫小牧でパン屋をしていた小林家の当主にわたしの上の姉が嫁いでいたが、その親戚にあたるのだ。わたしは弘前からも近い青森県との県境を越えて秋田県に入ってすぐの釈迦内はいつも仕事でも車で通ったことはたびたびあったが、日景さんを訪ねたことはなかった。日景さんとお会いしたのは、葬式で、苫小牧の姉の旦那さんが亡くなったときとか、姑さんが亡くなられたときの葬式でお会いしたことはある。そのときに名刺を出して、古本屋だと明かしたら、本好きな方なので、いろいろと商売の話もしたと思う。うちで自家製の古書目録を出しているというと、自分にも送ってもらいたいと住所を教えてくれた。それからは毎月発行の古書目録を秋田の釈迦内まで送っていたが、それが後で苫小牧の親戚から聴いて笑ったことがある。目録に掲載された貴重な郷土資料が出たときは複数のお客から注文のハガキやファックスが殺到する。嫁一人に婿十人というときもあり、当然抽選になる。日景さんもその一人で、抽選日が過ぎて、自分の欲しい長年探していた本が当たるかなと、本が来るまで部屋をうろうろとしたようで、そのとき、身内のどなたかが、青森の古本屋さんは苫小牧の姉さんの弟さんでしょう、うちの親戚だから、電話で頼んだらいいのにと、心配でうろうろとしている日景さんを哀れに思ったのか、そう笑って話したとか。わたしが電話してあげるとも言ったとか。だけど、日景さんはそれは悪いから、厳正な抽選でなくなるからと、断ったようだ。

 大館には他に苫小牧の家とは親戚が多い。小林家との親戚では『蟹工船』を書いた作家の小林多喜二がいる。多喜二は、幼少時代に貧農であった父親と喰えなくなってから、大館から小樽の伯父のパン屋を訪ねて津軽海峡を渡る。伯父の経営する小林三星堂のパン屋は後に三星パンとして苫小牧に移る。そこの先代の社長が多喜二とは従兄になる。うちの姉は代替わりした長男に嫁いだ。いまも本家を一人で守っている。

 もうみんな亡くなったので、こういうことを書いているが、どうも、みんな生きているときは、多喜二のことを話したがらない。いい顔をしなかったので、亡くなられた姑さんにもその話をしたことがない。どこかで、多喜二とは線引きされているかのように、よく思っていなかったようだ。もういいかなと時効のように書いている。

 多喜二は、少年になってからも伯父のパン工場のパンや牛乳を卸してもらい、港で売り歩いていた。そこで見たのは貧しい港湾労働者たちの群れで、そこから後にかの蟹工船が生まれる着想を得る。パン屋の伯父は多喜二の頭脳明晰が惜しいと、小樽高商(後の小樽商科大学)まで進学させる学費も続けた。

 姉と頼まれて一度大館に車で連れて行ったとき、姉は親戚周りをしていた。わたしもつきあったが、昔の多喜二の生家があった下川沿でいまは川口だが、奥羽本線の下川沿駅近くの家に挨拶に寄った。確か文学碑も建てられていたのを見た。本家に嫁に行った姉は青森に里帰りしても近くの秋田の大館も車で1時間もかからないところだから、一度は顔を出さないといけないと思っていた。ただ、あのときは釈迦内は東北自動車道路で行ったので通り過ぎて寄らなかった。

 国道7号線はよく走る。弘前から秋田寄りにはいい温泉がある。わたしは温泉好きなので、大鰐温泉、碇ヶ関の温泉から古遠部温泉とか、赤湯など息子たちと入りにドライブした。その先の矢立峠を越えたら秋田県で、その鬱蒼とした山のどこかに相馬大作が潜んでいたのだなと、眺めていたことがある。南部と津軽はいまも仲はよくないのか、青森県を二分している。相馬大作事件はその象徴的な事件だった。


 ※このブログを書いて、数日後に図書館から借りてきた三浦綾子の『母』という文庫本を読んだ。それは偶然にも小林多喜二の母セキの述懐する話を小説にまとめたものだった。それに書いてあったのが、大館釈迦内の木村家から川沿の小林家にセキさんは嫁に来たという。それはわたしの姉と同じではないのか。木村から小林へだ。それで日景さんとの関係が分かった。どういう親戚関係かと長年考えていた。それが相馬大作とも繋がり、遠縁になっていたとは。大館の多喜二の親戚がヤソであり、勧められてセキさんも洗礼したかったと書かれていた。三星パンの小林家はキリスト教であったことがこれで頷ける。先代は教会を建てて寄贈したという話も聴いた。本が本を呼んで教えてくれた。