コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

閉塞してゆく旅路 1

今日の今日だから、ホテルはもうキャンセルはできない。あいつがドタキャンするのは解っていた。ゆうべのブログを書いているのが見つかったから、わたしをも外敵の一人にして、信用がならないのだ。まあ、一昨日までは、一人で旅行する予定であったから、余計な金を使わなくてもいい。
 久しぶりで山手線で新宿駅で降りた。そこから小田急で小田原まで行く。それが一番安く早い。その沿線も随分と探検した。温泉もそうだが、あちこち日帰り旅行で公園巡りもした。
 小田原から東海道線で熱海まで。そこから伊東まで電車乗り換えだ。これで伊豆に行くのは6回目だが、いつも下田まで行ってしまい、途中下車したことがない。それで、今回は、伊東温泉一泊と熱川温泉一泊の二泊三日温泉旅行なのだが、Go To トラベルのキャンペーンで随分と安く泊まれる。東京は10月1日から補助金が出るが、いまは千葉県民でどこへ行っても安いのだ。
 熱海も前に泊まった。真鶴や小田原も歩いた。修善寺は若いときに行ったし、そこから下田まで伊豆の踊子コースで夜を徹して歩いた。65キロくらいあったか。夜の11時に修善寺から歩き始めて、天城峠の旧道のトンネルを通り、下田に着いたのは翌日の昼2時だった。農家の納屋で仮眠したり、バス停で雨宿りしたりした。無銭旅行で、帰りはヒッチハイクで帰ろうとして、男一人19歳であったが、乗せてくれず、警察で千円借りて東京まで戻ってこれた。無謀な旅が好きだった。
 堂ヶ島温泉にも若いとき、素潜りに来て、駅前をうろついたら、宿のおやじが「兄さん、泊まりか」と声をかけてきた。「金がないから」というと、「いくらなら出せる。千円なら素泊まりさせるが」というので、それで泊めてもらった。ウエットスーツをバッグに入れて、伊豆のダイビングスポットを歩いたときだ。
 名古屋の百科事典のセールスの会社にいたときは、社員旅行で1億円の純金風呂で有名だった船原温泉に一泊した。そのホテルは倒産、純金風呂は盗まれて、廃墟になっているとか。
 いろんな思い出が詰まった伊豆だが、今回はどうも安いから行くのだ。本当は石垣島に二泊かるよう手配していたのだ。それが島でクラスターが発生して、なんだか離島は観光で行けないと思い、それと台風シーズンなので、帰れなくなると職場の仲間に迷惑をかけると、キャンセルした。その代わり、近場の温泉にしたのだ。
 黒船電車というシックな黒い電車に熱海から乗る。リゾート21という車両で、海側に面した座席が海に向かって並ぶから、ラウンジでくつろぐように海を眺めて旅ができる。あいにくの雨がずっと降っている。秋雨前線と低気圧が三つも来ているので、今日明日は天気が悪いのだ。
 伊東温泉には来年は住みたいと、マンションが家賃2万円のところがあるのでネットで物件を見ていた。ここなら東京まで2時間半で行くし、交通費もあまりかからず、日帰りができる。普段は旅行ばかりして老後は暮らすので、荷物の置き場所とたまに帰って寝る安い部屋があればいい。それで海と温泉のある伊東がどうかと、この周辺も視野に来年、千葉から引っ越す先を探していた。この旅はそのための下見もある。一応、市だからなんでもあると思ったら、そうでもない。まずは昼時は過ぎたが、飯でもと、探したがあまり駅周辺には店がない。ようやく見つけたのが居酒屋で、昼にランチの看板で入った。広く綺麗な店だが、客がいない。店員が一人だけ、呼んだら出てきた。海鮮丼と生ビールにした。旅に出たら、あまり好きではないが、刺身でも食べてみようかとなる。伊豆だから、好き嫌いは別として地のものは食べてみる。それと酒も飲まないが、相方のことで頭にきていて、自棄酒ということもある。
 街中は人が歩いていない。どこもここも地方はそうだ。傘をさして、海岸を歩く。オレンジビーチと書いてあるが、みかんが産地だからか。西のほうへと歩けばマリンタウンという道の駅があったが、山側の歩道からは行けない。向かいに渡るにはずっと離れた信号まで行かないと。そういうところが歩行者のことは考えていないのだ。すべて車相手だ。そこにも日帰り温泉があるが、行くのをやめた。雨と風も強い。こんなときに旅行とは。ついていない。途中の安売り店で今夜の酒と飲み物など買った。泊まるところは飯がつかない。食事のサービスがないので、持参しなければならないところだ。
 温泉街へと戻る。川端に柳で、ぼんぼりのような街灯もいいし、古い旅館が並ぶ。温泉街の風情を残している。川端に二軒並ぶ昭和初期の旅館のひとつに今夜は泊まるのだ。なかなかそういうところには泊まれない。新しいホテルには泊まりたくない。宿の隣が、名所となっている旅館で、東海館といういまは旅館はやめて、公開している建物に入る。日帰り入浴はコロナでやめていると貼り紙がしてあった。入場料を納めて中を見学する。部屋もなんとかの間とか、窓は飾り窓で、書院の欄間のデザインも職人技で、見所とある。6階ぐらいある望楼まで階段で上がる。客は何人かいた程度。見晴らしはいい。雨でなければ天城山も見えたそうだ。
 隣のやはり古い昭和初期の宿に入る。連れは急に来られなくなったと、二人分を支払う。女性が案内してくれた。ここは和風旅館を外人向けのホステルにしたのだと。それで、広いキッチンは自由に使っていいと、食器や器具は揃ってる。使ったら洗って元に戻すセルフサービスだ。自炊はしますかと聞かれたので、一泊だけだから、何か買ってきますというと、みんな外人さんたちが飯を食っているリビングルームも見せた。新聞と雑誌、パンフも英字で、注意書きも英語。予約したときはメールが英語で来た。電話をしたら、最初はぺらぺらと英語。バックパッカーで世界を旅している雰囲気が和風旅館だから面白い。いまはそういう外人相手も商売としてはいい。トイレがおかしかった。男の小のトイレに英語で何やら書かれている紙が貼られていた。見たら、あなたのスティックは(ペニスのこと)あなたが思うほど長くないとあり、それだから、もっと接近して用を足しなさい、汚さないでということなのだ。それに笑う。寝るところは相部屋だ。20畳ぐらいの和室に衝立をして四人が寝られる。ロッカーは木箱に鍵がついている簡単なもの。同室は若い女性一人でわたしと二人の男女混合相部屋も外国と同じだ。別に危ないということもない。その女性は部屋にウエットスーツを干していたので、サーファーなのだ。
 中国の若い人たちが日本人と混じってウノのゲームに興じていた。日本語と中国語が飛び交う。風呂は二階に家族風呂、後で入ったら、熱い。掛けて終わりにした。大浴場は下にある。そこは少し温度が低いので入れた。誰も入っていない。
 晩飯を買ってこようと、商店街に出た。まだ5時なのにシャッターを下ろして、潰れた店が多い。全蓋アーケードの中心地なのだが、開けている店が少ない。飲食店もあまりなく、コンビニがない。さっき郊外を歩いたら、車で行ける国道沿いにはあるのだが、駅からの商店街など市街地はコロナもあってか、やめたり閉めたりと、悲惨な状態だ。これでは飯が食えないと焦る。ぐるぐると歩いて、ようやくドラッグストアを見つけた。そこなら少しは食品も売っているだろう。冷凍ものとインスタントものばかりで、せっかく伊東温泉に来て、カップ麺はないだろう。みじめな晩飯になりそうだ。おにぎりとチーズとつまみという、それしか食べるものがない。
 買って帰ってリビングルームには欧米の夫婦がいたが、そこで一人飯をはむ。パソコンも出して日記をつけたり、新しいブログのサイトを探したりした。いままでのは全部削除してしまった。あいつに読まれたので、詩もなにも消して、新たに始めるために、別のペンネームで書かないと。それを考えたりネットでブログを探して時間が過ぎる。そこでウイスキーも飲んだため、久しぶりの酒で酔った。
 まだ8時過ぎだが、ゆうべは職場であいつのせいで、眠れず、3時間ぐらいしか寝ていない。寝不足がどっときた。布団に入る。と、ドーンとすごい音がした。すわ、戦争か、はたまた富士山の噴火かと、飛び起きた、すると、外からバンバンバンと爆発する音。窓を開けたら、下は川だが、川端には提灯、少し離れた広場では盆踊りのようなものの歌が流れ、空には花火。土曜日だからか、花火大会とは知らなかった。去年は見なかったし、一昨年は警備の仕事場が隅田川沿いの高層ビルで、花火大会を見るのではなく仕事で巡回していたのだが、久しぶりに花火を見た。外は賑やかだが、眠いので、布団の中で、お祭りの踊りと歌と花火の音を聞いて、いしつか寝入った。

悲鳴

 相方はだいぶ参っていた。精神的限界で、わたしに電話をしてくる。助けを求めているのだが、無視はできない。それで、夜遅くスマホを止められているので、非通知の電話が来た。公衆電話からかけてきているのだ。いまから会えないかというのだが、夜も遅いし、台風の影響で雨が降っている。また可哀想に思えてくる。それで、翌日の昼にランチでも食べようかと、わたしは休みなので、約束をいれた。大丈夫か、どうにかなっても大変だ。電話は途中で何度も切れる。スマホが相手だと電話料金がかかる。10円玉を入れて、何秒話せるのだろうか。硬貨は落ちてゆく。タイムリミットで切れる。泣いているので、またかとは思うが、どうにかしてやりたくなる。
 翌日も一日雨だった。台風は千葉沖からそれていた。それでも雨風はある。明後日に伊豆の温泉に二泊旅行に出るので、冷蔵庫の中のもので悪くなるものはみんな持ってきて、旅行の準備もしてきた。どうせ千葉には帰れそうにないから。
 地下鉄の中で電話がくる。もう待ち合わせ場所の九段のマックに来ていると。早いな。その間も相方の娘とメッセンジャーで今後のことを相談していた。ここのところ、仕事も辞めて、生活にも貧窮しているようだから、何かと娘と連絡を取り合って、どうするか話していた。トキオの元メンバーがアル中であったが、それで事故を起こしたニュースがあったばかりだから、そっちの検査をしてみないかと説得する作戦だったが、たぶん、頑固に拒絶するだろう。ならば、コロナで健康診断を勧めて病院に連れてゆくとか、そういう騙して連れてゆく方法はどうかとやりとりしていた。ともかく、もう、千代田区にはいたくないというので、マンションの更新はなく、10月末で退去すると、管理会社にはこの朝に連絡した。期日はひと月後で10月24日までとなる。保険料と管理料、更新料と払わなくてもよくなる。どうせ、どうなっても相方の荷物はうちの千葉のマンションに運んで保管することにしたので、いまがいいチャンスだった。家賃の高く狭いマンションにいるよりは、家賃の安く広い千葉なら一時的に緊急避難はできる。
 マックでアイスコーヒーを飲みながら、相方と今後のことを話し合う。そろそろ潮時かと引っ越しのことは了承した。荷物はレンタカーで千葉に運ぶ。それも了解した。病院のことはその後だ。いまはコロナで病院も保健所も大変だろう。千代田区の保健所に娘と相談に行ったのが2月末であったが、それからコロナがひどくなり、相方と保健婦さんとの面会は長引いた。タイミングは悪すぎた。何か、わたしの筋書き通りに物事は運んでいる。いまの都心のマンションはわたしの契約なので、早く出したかった。
 明後日から伊豆に旅行に行くが、気分転換に行くかと言ったら、行くようなことを言うので、伊東と熱川の温泉宿に電話をしてみた。部屋は入れるというが、わたしの場合は千葉からだからGo Toトラベルで安くなったが、相方は都内だから10月1日以降でないと安くはならない。それでもたいしたことがないので、連れてゆくことにした。温泉旅行なんか、3年前の草津一泊以来だ。後は旅行らしい旅行はしていなかった。
 スマホも止められて使えないので、わたしの二台のうち一台を貸した。見られては困るメッセンジャーなどはアンインストールした。娘からのメッセージが同時に二台に入るので、片方を削除したのだ。それが甘かった。後で大変なことになる。
 昼飯にまた近くのジョナサンにした。そこも何回目か。平日なのでサラリーマンもだいぶ来ていた。酒は頼まないで、セットメニューにドリンクバーだけにする。それで長くいられる。だいぶ、気分は落ち着いたようで、相方はいい顔をしている。一人で外敵と戦い、これから司法書士の不正をただす裁判もやるというので、追い詰められていたのだ。わたしのことを東北の男は強い、特にわたしが強い人と持ち上げる。どんなに気負いがあっても、女は弱いものだ。誰かが傍にいないといけない。だけど精神的病はなんとかしなければ。別れたのではなく、離れたのだが、今後どうなってゆくのか、娘と密かに連絡を取り合って、決めてゆこうと思う。


 またマンションに行ってみたが、食材を買っていないのか、いつもなら晩飯のおかずを作るのに、材料がないようだ。それで、わたしが冷蔵庫からジプロックに入れてきたおかずを二人していただく。何かまた千石に一人でいたときのようになっていた。あのときは、冷蔵庫は空で、仕事にも行かず、引きこもって、腹をすかせていたのだ。
 翌朝は雨で、そこから出勤した。明日は表参道の地下鉄駅のホームで待ち合わせた。久しぶりの温泉旅行で、少しは気分は治るだろうか。
 仕事が終わり、職場で仮眠しようと、布団に入ったときだ。相方から怒って電話が来た。またブログを書いているでしょうと。ヤバイ、貸したスマホは消すものは消したが、ヤフーメールはそのままだった。いつもヤフーメールからブログのサイトにアップしていた。そのメールを削除したらゴミ箱に入るが、ゴミ箱の中までは覗かないだろうと安易に思っていたら、相方はそういうところまでチェックするやつなのだ。浮気をしても絶対にバレるのは、変なところで頭がよく、神経を使っている。もう、あなたとは暮らせない。あれほど書かないでと言ったのに。それだから、ペンネームを変えて、別のサイトから親しい人だけに教えていたのが、とうとう見つかってしまった。書いている内容を外敵が見て、それで追跡されるというのだ。何を恐れているのか、行動まで教えたくないのだ。それは政治家や芸能人ならいざ知らず、無名の一般人が心配することではないが、妄想がそうさせる。スマホは貸すのではなかった。
 翌朝、仕事明けで、地下鉄駅で待っていたが、案の定、相方は来なかった。電話を入れたら、やはり、あのことで、旅行には行けないと言ってきた。わかった、もう会わないようにしよう。だから、頼らないでもらいたい。この先、どうなるのか。いまのマンションは出ることを管理会社に話していた。居座られても困る。娘にメールして、来月の20日くらいまでママを入院させないと、行くところがないと。どこにも居場所はなかった。新しく借りる金もなければ、娘も同居を拒んでいる。わたしも一緒には暮らせないから離れている。出されたら、ホームレスよりない。荷物はどうするのか。後ひと月もないのだ。それまでどうするか、正念場を迎えていた。

味の素

 どこかの店で味の素が安かったので小袋を買った。いままでは味の素なんか使わなかった。化学調味料が嫌いというのではなく、忘れていたのだ。たまたま、安売りしているのが目に入り、たまにと買ってみた。何十年ぶりか。青森のときも買ったことがない。使う習慣がなかった。使えば、やはりそれは習慣で、なんにでも味の素を使うようになる。
 よく、若い人でも味の素を嫌い、ラーメン屋で味の素を入れないでくださいと頼んだりしているのを聞いたことがある。使わないこだわりというより、その味が嫌いなのだろう。わたしは別に嫌いでもない。
 小さいときからあったが、一時、味の素をかければ頭がよくなるというような噂が子供たちの間で流行り、わたしが子供のときは、納豆や漬物、味噌汁など、なんにでも味の素をかけていた。子供用の黄色い卵味なのか、そういう味の素も売られていたときがあった。それを買ってきてもらい、食卓には必ずそれがあり、なんにでもかけて食べたものだ。梅干しも酸っぱいのが、味の素をかけたら、酸味が抑制されてそんなに酸っぱくはなくなる。それも麻薬のように、習慣になると、かけないと不味い気がしてくる。
 いまは味の素がなくても味付けがしてあるものが多く、インスタントの簡単調理の素が出回ると、味の素の出番がなくなる。味噌汁もほんだしなどもあり、別にそれだけでも美味しい。
 アジアを旅したときは、食堂の厨房の棚に、味の素とキッコーマンの醤油が必ずあって目についた。スーパーに行っても、日本の調味料や醤油はもはや現地の人にもなくてはならないものになっているのだろう。ところが、一度、イスラムの国で、味の素には豚肉の成分が入っているとかで、排斥運動が起こった。味の素ではそれを恐れて、いまは豚肉の成分は使用していないだろうとは思う。
 安く売られていた味の素を買ったら、いつしか昔のように、何にでも入れている自分がいた。そうか、あれば使うのだ。便利だから、だしがないときは、味噌汁は味の素だけでもいい。それを代用できる成分が入っている。いまはただ、必要よりも懐かしさで使っている。しばらく忘れていた味の素の味は悪くはない。化学調味料というから、添加物のように思うがそうではない。誤解なのだ。


 子供のときは気持ちが悪いと思ったのは、ご飯にも味の素をかけて混ぜて食べた。それは美味しくはなさそうだ。いまのようにおかずもあらゆる種類があったときではないから、味の素はハイカラであったのだ。思えば、単純なおかずが多かった。海辺の町だったので、魚が多かった。焼き魚に煮魚、刺身では食べなかった。ホタテ貝も産地なので、よく食卓にはのぼったろう。長芋も名産なので、味噌汁の残り汁に長芋を摺っていれて、大きな鍋にどんと作り、食卓の真ん中に置いた。今日は御馳走だよという声で、喜んで食卓についたら、大鍋にとろろ芋よりない。だけどそれにも味の素をかけて、何杯もお替りするほどうまかった。お櫃が空になるほど最高8杯食べたことを覚えている。
 一汁一菜とはいうが、それに近いものがあった。魚はホッケが安く、いくらでも獲れたときだったので、ホッケばかりで、おふくろなんか、いまでもホッケかと、飽きて食べたくないというくらい。いまのようにスーパーで年中野菜が売られているときではなかったので、どこの家庭でも大樽に冬の備蓄の漬物を漬けていた。ただでもしょっぱい漬物に醤油と味の素を振っていただく。おかずが少ないので、漬物だけでも丼に山盛り食べたりしていた。塩分の摂りすぎには違いない。


 昔の食生活はバラエティさはなかったが、別に不足はなかった。洋食というとトンカツやコロッケは日本的だが、カレーに炒めご飯、それも日本的だが、ピラフという言葉は知らなかった。そんなものしかなかった。後は和食の田舎料理。
 いまはなんでもある時代で中華、イタリアン、フレンチとメニューも豊富で食材もスーパーでは他国よりも品数は多く、世界の料理は家庭でも作れるくらいなんでも売っている。味の素はその中で埋もれていた。味の素を使わない料理が増えたということか。味覚も多品種で外食しても迷うほど多国籍のレストランが並ぶ。なんでも食べる日本人、外国では保守的で単純一辺倒の味が多い中、日本は味ではどこの国にもないインターナショナルの国なのだ。