コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

味の素

 どこかの店で味の素が安かったので小袋を買った。いままでは味の素なんか使わなかった。化学調味料が嫌いというのではなく、忘れていたのだ。たまたま、安売りしているのが目に入り、たまにと買ってみた。何十年ぶりか。青森のときも買ったことがない。使う習慣がなかった。使えば、やはりそれは習慣で、なんにでも味の素を使うようになる。
 よく、若い人でも味の素を嫌い、ラーメン屋で味の素を入れないでくださいと頼んだりしているのを聞いたことがある。使わないこだわりというより、その味が嫌いなのだろう。わたしは別に嫌いでもない。
 小さいときからあったが、一時、味の素をかければ頭がよくなるというような噂が子供たちの間で流行り、わたしが子供のときは、納豆や漬物、味噌汁など、なんにでも味の素をかけていた。子供用の黄色い卵味なのか、そういう味の素も売られていたときがあった。それを買ってきてもらい、食卓には必ずそれがあり、なんにでもかけて食べたものだ。梅干しも酸っぱいのが、味の素をかけたら、酸味が抑制されてそんなに酸っぱくはなくなる。それも麻薬のように、習慣になると、かけないと不味い気がしてくる。
 いまは味の素がなくても味付けがしてあるものが多く、インスタントの簡単調理の素が出回ると、味の素の出番がなくなる。味噌汁もほんだしなどもあり、別にそれだけでも美味しい。
 アジアを旅したときは、食堂の厨房の棚に、味の素とキッコーマンの醤油が必ずあって目についた。スーパーに行っても、日本の調味料や醤油はもはや現地の人にもなくてはならないものになっているのだろう。ところが、一度、イスラムの国で、味の素には豚肉の成分が入っているとかで、排斥運動が起こった。味の素ではそれを恐れて、いまは豚肉の成分は使用していないだろうとは思う。
 安く売られていた味の素を買ったら、いつしか昔のように、何にでも入れている自分がいた。そうか、あれば使うのだ。便利だから、だしがないときは、味噌汁は味の素だけでもいい。それを代用できる成分が入っている。いまはただ、必要よりも懐かしさで使っている。しばらく忘れていた味の素の味は悪くはない。化学調味料というから、添加物のように思うがそうではない。誤解なのだ。


 子供のときは気持ちが悪いと思ったのは、ご飯にも味の素をかけて混ぜて食べた。それは美味しくはなさそうだ。いまのようにおかずもあらゆる種類があったときではないから、味の素はハイカラであったのだ。思えば、単純なおかずが多かった。海辺の町だったので、魚が多かった。焼き魚に煮魚、刺身では食べなかった。ホタテ貝も産地なので、よく食卓にはのぼったろう。長芋も名産なので、味噌汁の残り汁に長芋を摺っていれて、大きな鍋にどんと作り、食卓の真ん中に置いた。今日は御馳走だよという声で、喜んで食卓についたら、大鍋にとろろ芋よりない。だけどそれにも味の素をかけて、何杯もお替りするほどうまかった。お櫃が空になるほど最高8杯食べたことを覚えている。
 一汁一菜とはいうが、それに近いものがあった。魚はホッケが安く、いくらでも獲れたときだったので、ホッケばかりで、おふくろなんか、いまでもホッケかと、飽きて食べたくないというくらい。いまのようにスーパーで年中野菜が売られているときではなかったので、どこの家庭でも大樽に冬の備蓄の漬物を漬けていた。ただでもしょっぱい漬物に醤油と味の素を振っていただく。おかずが少ないので、漬物だけでも丼に山盛り食べたりしていた。塩分の摂りすぎには違いない。


 昔の食生活はバラエティさはなかったが、別に不足はなかった。洋食というとトンカツやコロッケは日本的だが、カレーに炒めご飯、それも日本的だが、ピラフという言葉は知らなかった。そんなものしかなかった。後は和食の田舎料理。
 いまはなんでもある時代で中華、イタリアン、フレンチとメニューも豊富で食材もスーパーでは他国よりも品数は多く、世界の料理は家庭でも作れるくらいなんでも売っている。味の素はその中で埋もれていた。味の素を使わない料理が増えたということか。味覚も多品種で外食しても迷うほど多国籍のレストランが並ぶ。なんでも食べる日本人、外国では保守的で単純一辺倒の味が多い中、日本は味ではどこの国にもないインターナショナルの国なのだ。

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