コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

身内はLINEで繋がる

 北海道の姉にようやく電話が繋がる。それまで電話を何回しても出ないので、手紙を長々と書いた。五年分のことを書いて教えた。姉妹はみんなLINEで繋がっているのだとか。それなら通信費もかからないし、安心だというのだ。いまは怪しい電話が横行しているから、みんな警戒している。わたしにも最近はよく非通知の電話がかかってくる。非通知というだけで出ない。すると、それは相方だった。スマホをいまは貸したからそれでかけてくるが、それも最初はおかしかった。わたしのスマホなので、わたしの名前でかかってくる。わたしからわたしへだ。それは怖い。ドッペルゲンガーだろうか。スマホがないと、公衆電話から10円玉でかけてよこすから、非通知になる。誰かと思った。
 相方とはLINEで繋がっていない。それも何者かが入り込むと被害妄想で信じていないのだ。スマホ自体を信用していないから、冗談で、後は糸電話と狼煙と手旗信号よりないなと、通信手段を教えた。何をしてもダメな人だった。
 LINEは青森の友人たちとも繋がっていない。わたしはいまの職場では仲間と繋がっている。それと、繋がっているのが、スーパー銭湯だとか、宅配便とか、いろんな店が入っている。それらはよく利用するから、情報を入れてくれて、安くなるクーポンもあるので、提示すれば100円引きとか、ドリンクが100円になったりするから、使っているが、次々にうるさいくらい入ってくる。そのたびに着信音がうるさい。小さくすればいいのだが、他の大事な相手もあるからそうはできない。
 LINEをやって6年くらいにはなるのだが、いまだに通話をしたことがない。またそういう相手もいない。Skypeも入れているが、相手がいないから一度も使ったことがない。第一、スマホもネットやメールだけで、電話はいらないのではないか。仕事では必要なので、職場の上から、前に持たない主義であったときに、どうして持っていないのだと叱られた。自宅にいても、緊急呼び出しがあって、勤務を頼むときもあるので持っていなければいけないのだ。それまで会社に連絡するに公衆電話からしていた。毎日かけるのだが、10円で済む。月の通信費は300円くらいだった。それが、またスマホを買ったら、契約が安くても3千円になる。めったに電話は来ない。一日一回も鳴らない。なのにどうして持っていないといけないのだ。青森にいたときは、いろんな電話がきた。仕事もあるし、趣味の仲間から友達も多かった。アドレス帳は埋まっていた。それが、いまはたまに来るおふくろからとか、相方からとか、それも毎日ではない。LINEでは仕事仲間からは来るときがあるが、それも緊急のときだけ。
 相方の娘とは母親のことでメッセンジャーでやりとりはしている。相方はメッセンジャーをやらないので、見られないようにしていた。夫婦でもスマホの中身を覗かれる。浮気していないかどうかと。
 うちの息子たちからはほとんどメールも電話も来ない。LINEでも繋がっていない。ここ半年は顔も見ていない。わたしのほうからも連絡はしない。行き来することもなく、孫の顔も何年も見ていないから、同じ東京にいても、会うこともなく、小学生の孫がいつしか高校生になっていた。冷たいじじと話しているだろうか。わたしにはそういうところがあるようだ。誰とも繋がらない。コミュニケーションでは孤立している。やたらと会う人ごとにLINEの交換を名刺でも配るように繋がる人がいるが、そう社交的でもない。アドレス交換もやらない。どうして遮断して生活しようとするのか自分でも分からない。


 このコロナの時代、みんなが不安で繋がりをますます求めたがる。安否を確かめ合う大災害のときと同じだ。地震や台風のときでも、身内は大丈夫か、友人はと、確認しあうのが普通なのに、わたしときたら冷たいもので、地元の新聞のお悔やみ欄を毎日見ていて(このお悔やみ欄が前は無料で閲覧できたのに、9月から有料で契約した。新聞社も厳しいのだ)知り合いが無事かどうかは、死んでいないなと、それで見るという安易さ。先日、癌の闘病で亡くなられたペンの仲間だが、彼の死亡告知が出なかった。人によっては出さないでという人もいるようなので、遺族や故人が隠すこともある。それは著名人ほど、周囲がうるさい。やたらと墓石屋、ギフトショップ、印刷屋、会館とセールスに押し掛けるから、うるさいので出さない人もいるのだろう。
 コミュニケーションも煩わしいときがある。静かに暮らしたい人もいる。山奥にぽつんと一軒家で、完全隠居の仙人暮らしを老後は好んでする人もいる。LINEどころかスマホもいらないという人こそ、そんな境地になってみたいものだ。

閉塞してゆく旅路 3

 泊まるホテルも外側を見たら、廃墟ではないのかと思うほど古い。昨日泊まった旅館はよかった。90年以上経っているが、和風旅館は古いほど味があるのに、近代的なホテルは古くなると腐っている。素材が問題なのだろう。経年で劣化しないもの、味わいがあるのは、西洋の教会やお城もそうだが、ビルは古くなれば化け物屋敷となる。
 客は少ない。大きなリゾートホテルだが、期待していたプールも使っていないようで、藻で緑色。もう完全に泳げない。部屋は広かった。ダブルルームにエキストラベッドが二つで、押し込めたら四人が泊まれる部屋に一人。それで一泊朝食付きで3600円だから文句は言うまい。ベランダからはすぐが海。潮騒が聴かれて太平洋に大島や伊豆諸島が並ぶ。夕日は見えないが、朝日は水平線に上るのが見えるだろう。7階からだから展望はいいが、ベランダは隣の部屋にも行ける治安の悪さ。
 さっそく大浴場に行く。館内はマスク着用とある。風呂には誰も入っていない。貸し切り状態だ。昔の浴槽が大きいのがひとつと露天風呂の広いのがひとつだけ。いまはスーパー銭湯のほうが楽しめる。わたしがコンサルなら、そんなに改装しなくても仕切るだけで、イベント湯にしたり、ジェットバスから炭酸泉と、そんなのを区割りして増やすが、いまはただ風呂に入るのではない。温泉は遊び場なのだ。
 暗くなるのが早くなった。部屋で弁当をいただき、家では飲まない酒も飲む。今日は歩いた。20キロは歩いたか。疲れ果てベッドに沈む。


 翌朝、風呂に入り、バイキングの朝食だが、ありきたりのものばかりで、加工品が並ぶ。手作り感がまるでない。お客は50人くらいだろうか。年配者が多い。10月になれば、東京も解禁されるので、Go Toで来るのだろうか。入口で全員に手袋が渡される。バイキングの料理も使い捨てのビニール手袋をしてトングを掴む。その辺は徹底している。
 コーヒーも不味いから、引き揚げた。9時過ぎにはチェックアウトしていただきたいというので、長居は無用と出た。熱川からは戻るだけだが、三日目はいい天気で、青空。帰るという日に皮肉なものだ。もうひとつだけ見たいものがあった。大室山だった。何かの雑誌でだいぶ前に空から撮影した写真を見た。なんだろうかと思った。木の生えていない坊主山だが、コニーデ型の火山で、火口も見えているが、全体が草原なのだ。それが平野にぽこんと出ている出べそみたいな形が不思議だった。
 そこに行くには、帰る途中の伊豆高原駅からバスに乗る。伊豆高原駅はそれまでの途中の駅とは違い、しゃれていてモールのようにテナントが張り付いている。バスは一時間に一本。出たばかりで一時間も待たないといけない。それで周辺を散策。別荘地のようで、不動産広告が多い。スーパーが駅前にあった。またそこで昼飯を買ってゆこう。どうも観光地の食事処では食べたくない。混んでいるのと高いわりには味はどうなのか。好きなものを買って食べたほうがいいと、地元の鯛を使った名物の箱寿司を買う。自販機も観光地値段のときがあるから、スーパーで調達。
 バスは別荘地を走る。着いたところがシャボテン公園。その前が大室山でリフトで上まで登る。昨日までは山も見えず、登っても雲ばかりだったろう。だから、天気予報を見ながら最終日に入れた。リフトは遅い。歩いたほうが早いだろう。標高は580mというからそんなに高くはないが、上からのパノラマがすごい。お釜は深さ70mというが、全部草原で、噴火口の中でアーチェリーがやれるようになっている。ぐるりと火口縁を一周する。気持ちがいい眺望だ。富士山が見えた。この日が初冠雪という。伊豆諸島がずらりと並ぶ。一番近くに初島。大島が正面に、利島から神津島まで天気がいいので遠くまで望める。真下にシャボテン公園とゴルフ場、昨日行った城ケ崎海岸も見える。
 リフトの終点の売店では買うものがない。ベンチに座って弁当をいただく。見晴らしのいいところで食べる飯は格別だ。本当なら隣にあいつが座って一緒に食べているのだろう。来なくてよかった。初日と二日目はぶーぶー言ったろう。泊まりのホテルも最悪だったから。旅にいても今後のことを考えている。電話は今朝も鳴ったが拒否した。どうせ、恨みごとばかり、同じ妄想を聞かされる。娘からは返信がなかった。身内としてどうしたいのか。どうにかして病院に連れてゆく方法として、いま、金に困っているから、貸してあげるからその代わりにわたしとメンタルクリニックを受診することを条件にしようか。市谷の駅前にあるのを調べていた。最初は精神科でも町医者でいい。そこで診断書を書いてもらえば、後に障碍者年金がもらえるのだ。薬は飲まないだろうから、いまは注射で薬と同じ効果が持続するものがあり、一回で二週間はいいそうだ。ならば、ひと月に二回だけ通院すればいい。それもついて行ってやらねば、自分はおかしくないと拒むだろうから。
 リフトで下に降りてきた。伊東駅までのバスに乗る。観光地はバス代も高い。タクシーのように上がってゆく。伊東市も広い。郊外にはいろんな全国チェーンが張り付いて、やはり車社会なのだ。車がないと買い物も不便なようだ。
 駅から熱海行に乗る。昼過ぎて、いまから帰ったらちょうどいい。するとまたあいつから電話。いま電車だから出られないと切る。とりつかれている。拒絶すればするほど向かってくる。すがられて、どうしようもない。他に頼る人がいないからだ。可哀想な人だ。飯もろくに食っていないのだろう。だから痩せてきている。餓死するよりないのか。それも見て見ぬふりはできない。困った病気だ。


 熱海から上野東京ラインという快速電車が走っている。それに乗った。なんと早い。大船、横浜、川崎、品川と停まる駅も少なく、東京駅には一時間半で来た。総武線に乗り換えて、千葉まではすぐだ。なんとも疲れる旅だった。コロナでどうなっているのか検証する旅でもあった。いままでもあちこち行ったが、やはり現場は厳しい。この傷は長く残るだろう。観光地は立ち直るのか。思いは暗く、リュックの酒もなくなった。


閉塞してゆく旅路 2

 朝風呂も誰もいない。外人さんたちはみんなカラスの行水なのだ。湯舟に入る楽しみを知らない。布団を畳み、ホステルではお馴染みのスリーピングシーツもたたむ。朝飯はリビングで昨日買ったロールパンを焼いて、冷蔵庫の中のいろんなジャムをつけていただく。コーヒーはデカンタに温めていた。そういうところが気楽でホステルのいいところ。
 雨は上がっていた。曇りで、やはり涼しい。夏はもう行ってしまったか。海水パンツの出番も水中メガネも用はない。ビーチに出てみたら、波は荒い。歩いたら波に足がさらわれそうだ。
 ビーチの近くに古い戦前の商家があった。屋号は米惣とある。米屋であったらしい。そこが詩人の木下杢太郎の生家で記念館になっている。ここで生まれたのだ。じっくりと見学した。ガラスケースに昭和5年に出した詩集が展示してあった。わたしにとっては懐かしく忌まわしい詩集。いまから30年以上も前だが、うちの古本屋の一番上の手が届かない棚にその詩集を飾っていた。ペン書きの署名入りの限定本だ。10万円の値をつけていた。わたしは子供らを連れて合気道の道場に行っていた。バイトの女子高生に店番を頼んでいた。戻ったら、詩集が抜き取られていた。聞いたら、よく見ていなかったという。全然留守番になっていない。そんな恨みのある詩集と再会した。
 杢太郎は小石川と千石にも住んだ。わたしも6年前にそこで暮らした。また、ハンセン病の研究もしていたとある。そこのところが興味があって時間をかけて見ていた。裏の部屋も見たが、そのまま保存されている。


 いいものを見た。ビデオも見たが、杢太郎の文学碑が駅裏の伊東公園にあるというので、行ってみた。誰もいない。ふうふうと息を切らせる。坂道のある町には住めない。そこから駅と市街が眺望できた。街中を昨日も歩いて、不動産屋の店頭に貼られた賃貸物件も眺めたが、ここには一年でも暮らせないと思った。街の暗さはコロナのせいとは思うが、どうも住みたいとは思わない。
 電車が来た。翌日は熱川温泉に泊まるのだが、その途中にある城ケ崎海岸駅で降りて、景勝地も見たい。駅から歩いて25分とあった。駅でうろうろしていたおばさんがいた。同じ城ケ崎に行くようだ。わたしに声を掛けてきて、同じ方向だからと、一緒に歩いた。奈良から来ていると関西弁。いつも一人旅なのだという。人と話すのも苦手とよく喋る。わたしも一人旅が好きで、ツアーに参加しないと話を合わせる。海は相模湾だから荒くはないでしょうとおばさんが聴く。湾は熱海のほうで、ここは太平洋ですと、湾も太平洋なのに、よく解っておられないようだ。どこかで売店はないかと探した。何もない。昼飯はどうするのか。観光地はこれだから、弁当とドリンク持参でないといけない。別荘地のようで、その別荘を利用して、カフェやイタリアンレストランをしたりしている。普通の自宅でやっている。玄関も家の玄関なので入りにくい。陶芸や焼き立てパンなど、どこもみな同じ。辟易する。そういうところは覗いてみたいとも思わない。おばさんは、わたしが歩くのが早いと誉める。これでも右足に人工関節を入れた話もする。それまでは歩くのもしんどかったのが、いまはスタスタだ。
 穴口という、上から見たら、岩に穴が開いていて、上から眺められるところで、おばさんと別行動。わたしにはついてゆけないようだ。吊り橋と灯台のある観光スポットに行く。みんな車で来ているので、駐車場はいっぱいで、人もいっぱい。荒々しい岸壁に岩が頭を出している沖合。海岸美もいい。売店があった。よかった。自販機でコーヒーなど買って、何か腹の足しと、ひまわりの種と蜆の干したのをつまむ。オルニチンで健康にいいとか。
 灯台はコロナで登らせていない。岩の上にみんな登っている。ものすごい怒涛で、へたすれば濡れるほどだ。
 また駅まで歩いて戻った。いい運動になる。駅に着いたら、電車待ち。待合室にも中国人の若い旅行者たちがいた。なにやら食べていた。腹が減る。スナックをぽりぽりかりかりと美味しそうな音はやめてくれ。待合室になんとか文庫という寄贈された本と本棚があり、見たら文庫本が多いが、ヘツセもある。一冊抜き取って、昔読んだことがある横光利一の『紋章』を再読する。
 やがて電車が入線する。今度は熱川まで行く。車窓のどこかに海がある。明るいはずが曇りで暗い。気持ちも暗く、暗い旅、という倉橋由美子の小説があったな。
 熱川温泉に着いた。駅前からして足湯と湯けむり。あちこち湯けむりが上がって温泉街という感じだが、平地がない。地形はどうなっているのだ。斜面に町がある。それも勾配がきつい。車はよく登ってくるものだ。下が海と解るので、地図がなくても歩けるほど、町は小さい。坂を下りてゆく途中にラーメンの旗。そんなところで妥協して食べるときに食べないと、伊東温泉のように探さないといけないと、見つけた綺麗でもない食堂に入る。地元民が家族で入っていて、昼から酒盛りをしていた。考えてみたら日曜日だった。こんなところしか食べるところがないのか。コンビニはどうやら町中にはなさそうだ。その家族が、コンビニの話をしていた。国道のずっと離れたところまで歩きたくないと言っていた。これは今夜の弁当なんかも、どこか見つけたら買っておいたほうがよさそうだ。きっと郊外には車で行けるスーパーなんかはあるのだ。ふらりと電車で来た観光客は昼飯を食うのも大変だ。ラーメン定食にした。おかずが別に3品ついていた。久しぶりのラーメンだ。こんなところまで来てラーメンだ。他にはイタリアンや洋食のレストランは見かけるが、それでも温泉場に来てまで食べるものじゃない。
 観光案内所から地図をもらってきたので、それでウォーキングコースとやらを歩いてみる。海岸線を歩いて、目印になる餃子店から山に向かう。その坂道がきつい。地元の人たちはよくこれを毎日登ったり降りたりしているものだ。高低差200mとある。いい運動だが、生活をしていたら、老人なんかはどうするのだろうか。車椅子では通れない。ようやく、上の国道に出た。足がかくかくとなる。そこから歩いたら、片瀬温泉に出た。その先には白田温泉と看板がある。温泉だらけなのだ。と、スーパーとセブンの看板が見えた。よかった、あったと、まるで砂漠でオアシスを見つけたように、喜んで入る。モノはあまりない地元のスーパーだが、晩飯がホテルではつかないので、ドリンクと酒とまたスイーツと弁当など買えるものは買った。静岡だから、名産はあるのだろうが、わたしは刺身は嫌いだし、キンメダイもいらない。
 そこから海に出たら、はりつけの松というのがあった。明治のころに身分の差で一緒になれない恋人同士が寺を焼いた。そこには宗門改帳があり、いまの戸籍謄本のようなもので、それを焼いたら一緒になれると、火付けの重罪ではりつけ火あぶりになったのか。どこまで本当の話か。
 ずっと海岸線を歩いた。潰れているホテルが多い。やっているホテルも外壁が剥がれ、崩れて、これでは泊まりに来た客はみじめな思いをするだろう。わざわざ来て、高い宿泊料金を払って、わが家よりボロだなんてと。どこもそうだった。もうリフォームをする資金もない。したところで集客が増えるわけでもない。これはコロナ以前の問題で、温泉地はすでに疲弊しているのだ。
 湯波さんぽ道という海沿いを歩いて、ようやく今夜泊まるホテルに来た。太田道灌の銅像がある。高磯の湯という海辺の露天風呂に入りたかったが、閉めていた。まだ4時ころで早いのだが、ホテルにチェックインすることにした。もう見るところがない。だんだんとふてくさってきた。どうでもいい。