コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

テラス席のススメ

 コロナで都心の飲食店も密の店内を避けるように、店頭に椅子テーブルを出してテラス席を設けだした。歩道の使用許可は営業では降りないが、地区によっては、逆に推進して、特別に許可を下ろしているところも報じられていた。
 世界の都市、これは欧米もアジアもそうだが、飲食店の外にまで客席がある。それは日本では少ないのはどうしてだろうか。スタバでも店によっては外に席を設けているが、誰も座っていないのを見た。じろじろと見られるのが嫌だとか、特に飯を食うという行為は、見られるのが恥ずかしいと、わたしもそうなのだが、学生時代も弁当を食べているときは、隠すようにして食べていた。覗かれて、どんなおかずかと見られるのが嫌いだった。食べることはひどく個人的な行為なのだ。
 北欧では寒いのにテラスに出て飲食をしているのがテレビに出る。日照時間が短いから、太陽も食事の一部なのだ。ビタミンDは人間には必要だ。日本にいる外人たちも、春先のまだ寒いときでも、隅田川を散策していたら、ベンチで上半身裸になって日光浴していたし、日比谷公園でもそんな外人たちを見た。それがあたりまえのようだ。
 戦前の銀座七丁目の裏に洋菓子店のコロンバンの本店があった。外にはテラス席があったという。パリのカフェテラスを真似たものだった。創業者の門倉國輝はパリに渡り洋菓子の修行をして帰国した銀座の立志伝中の人と分厚い銀座の物語に載っている。親父は戦前にそこで働いた。丁稚奉公のようにボーイをし、テラス席にコーヒーやケーキを店内から運んだ。
 青森に戦後洋菓子店と喫茶店を開いたとき、7月14日だけはパリ祭というあまり日本人にはなじみのないお祭りを田舎町でもやって、テラス席を設けた。そのときは、ペンクラブの会長をされた三上強二先生が警察に掛け合って、一日だけの外での飲食の許可をとってくれた。蓄音機を出して、レコードでシャンソンを朝から夜まで流した。だけど、田舎の人は恥ずかしがりやで、誰もテラス席には座らない。外で飯を食ったり、コーヒーを飲むのはきっと勇気がいたろう。うちの叔父も同族会社だから働いていたが、さくらになってテラスで座ってコーヒーを飲んでいる写真がある。昭和28年ころと思う。
 どうしてか、地方だけでなく、都会でもテラス席というのはあまり見ない。外国では珍しくない光景なのに、日本だけどういうわけだろうと考えた。
 前に、高校の同級生と都内で待ち合わせて、彼女が神田古書祭りに連れて行ってというので案内した。そのとき、有名な喫茶店の檸檬でコーヒーを飲もうということになった。ところが、店内は禁煙で、外なら吸えるというので、二人とも喫煙者だったが、外のテラス席でタバコを吸い、コーヒーを飲んだ。通る学生たちがじろじろと見てゆく。学生の街で、シニアのカップルが何をしているのかと。何か落ち着かないのだ。
 台北に行ったとき、作家の林語堂の記念館になっている建物のレストランでフルコースをいただいたが、そのとき、外人観光客たちはテラス席を占領していたが、2月の冬なので、寒く、よく外にいるなと、店内席はがらがらで、日本人のわたし一人だった。寒くても見晴らしのいい開放感がたまらないのだ。それは、われわれが外でバーベキューをしたり、キャンプで野外で食事するときの楽しさと同じなのだ。アウトドアではするのに、われわれは街中では外で食べないのはどうしたことだろうか。アジアのどこでも、露店もあるが、屋台のほかに、普通の飲食店でも外に席を並べて、みんなそこに座って飲食している。エアコンがないから、暑いということもあるだろう。それだから、外のほうがまだ涼しいと。韓国でも南大門の夜市で真冬に飲んで食べたが、外にビニールで覆いをして、中には椅子テーブルでストーブも焚いている。そこまでして外で食べたがる。
 コロナでようやくテラス席があちこちで見かける。アメ横でも、夜は店が閉店したら、一帯は夜市のようになる。サラリーマンたちが、飲みに集まるのが、店の外に出されたテラスと言えば笑われるが、同じような雰囲気だ。
 本当は保健所の許可は下りないのだろう。目を瞑っていることもある。飲食店営業許可の規則は厳しい。外は不衛生なのだ。いまでこそ、道路は土ではないが、昔なら土埃が舞って、衛生管理のしっかりとしている日本では考えられない光景なのだ。
 思うに、それは明治6年の高札で、明治政府が出したお触れで、外国人がこれから日本を訪れるので、野蛮な国と思われたくないと、悪しき習慣を禁止することにしたからではないのか。それによれば、外で大小便はしてはならない。外で飯を食べてはいけないとあった。高札は明治6年で廃止され、それからは紙で印刷されたものが配布閲覧されるようになったが、最後の「定」なのだ。それまでは庶民は外で飯も食べていた。中国人もそうらしい。おふくろが、満州にいた戦時中も、外に出て座って食べていたという。それはいまのテラス席、屋台での飲食と繋がるのではないか。アジアにいまも盛んな夜市も、戦前は日本にも各地であった。夜店という名前がついた通りに名残がある。わたしが住んだ青森の夜店通りと同じ名前の通りが、やはりその通りで一年半暮らしたが、千駄木のよみせ通りがある。縁日では店が出るが、毎日出ている通りはいまはない。やはり警察の無許可営業の取り締まりが厳しくなったからだろう。明治からのそういった禁止令と生活改善が、いまに至るものと思う。
 ファーストフードが初めて上陸してきたのは、昭和45年くらいで、マックが銀座に1号店を出したときだった。そのときはわたしは学生で、親父も見たいというので、姉と三人で見に行った。親父は呆れて、歩きながら食べるんだとと、行儀の悪いのがアメリカから来たと、批判めいた言い方で笑っていた。いまでこそ、歩きながら食べたりするのが当たり前になったが、半世紀前なら恥ずかしい行為であったのだ。じろじろとみんなに見られて笑われる。そういう外で食べるという食のファッションも定着してしまえば、不思議でもなんでもなくなる。テラス席もコロナで全国に広がり、新しい日本の風景を見せてくれたらいい。
 コロナでようやく、外に出られる。街の雰囲気もがらりと変わる。賑わいが演出できる。テラス席は大賛成だ。コロナが収束した後も続けてもらいたい。


先祖代々の墓が荒れているって

 おふくろに電話をしたら、三男が三内の墓が荒れているから直さないといけないと、写真を撮ってきて見せるようなことを言ったとか。わたしもしばらくは墓参りには行っていない。三内霊園は青森市の郊外で、三内丸山遺跡のあるほうだ。そこは青森市で管理しているが、わが家では2区画持っている。その名義はわたしになっていて、ちゃんと管理料を払っているのかと心配して電話をしてきた。市役所にこちらの住所は伝えてあるから、千葉に今年は管理料の振り込み用紙が送られてきた。いくらでもないが、それを五年滞納すれば、墓に期限の札が貼られ、期限が過ぎたら、もう無縁仏と撤去され、別の求めている人たちに移るのだ。それをおふくろと妹が心配していた。わたしが郷里にいないのと、ふらふらとあちこちに行くから当主として大丈夫かと信用がならない。それを代行するのが息子なのだが、彼も古本屋で一緒に暮らしていたときは、仏壇も拝まないし、水と花とご飯も上げなかったし、掃除もしていなかったではないか。わたしが毎日綺麗にしていた。彼岸団子は自分で作ってあげた。墓参りもだから、三年くらい行っていないのだ。最後の生きている叔父がいままでは霊園の近くに暮らしているので、草むしりなどお願いしていた。叔父の次男が入っているし、叔父も自分たちも入るというので、別に分家だからと新しい墓を買わなくてもいい。それをいままで通りしてゆけば、墓地が足りなくなる。これからは一族郎党みんなが入る墓にしたらいいのだ。本家の墓は長男だけ入るのではなく、親戚ご一同様がまとめて入ればいらぬ金も使わないし、拝むのも一度で足りる。浄土真宗が、わが家の宗派だが、よく墓石には、倶会一処(くえいっしょ)と書かれている。墓はどこでもいい。みんな行くところがひとつだから、分散して埋葬することもないのだ。
 いまは、集合住宅のように、共同墓地があちこちの寺にある。個別の墓石はないが、納骨はまとめてする。それにお参りする場所も広い。お盆などはかちあって、並んで整理券発行まではゆかないが、混むだろうが、普段はそうでもない。そういう他人と一緒に入る墓なら、賑やかで楽しいかもしれない。みんな身内ばかりよりは、老若男女みんな仲良く入れば、ひょっとしてあの世ですてきな出会いもあるかもしれない。
 なのだが、わが家の墓石が少し壊れているのはみっともないので、とりあえず修理はしないとと、息子三人が金を出し合って直すようだ。いいことだ。次にそこに入るのはおふくろだろうし、叔父夫婦だろう。わたしは墓には入らない。できれば、骨はだしをとってスープにしてもらいたい。コラーゲンで美容にいい。
 わが家の墓は三つある。それが2区画に並ぶ。ひとつは近江家の江戸時代の下の石だけだが、家紋が入り、八戸の菩提寺で風化しているのが見つかり、青森まで運ばせた。水子地蔵もある。水子はわたしの兄弟もそうだが、わたしにも二人いる。最初と二番目の女房との間に。親父なんか何人堕させたか。それと昭和28年に建てた墓石は、それまで死者が出なかったが、沖縄で戦死した三男の叔父が遺骨も何もないが、戦死報告だけ昭和27年に来たので、お墓を青森の霊園にしたのが戦後のことだ。わたしの生まれたあたりに御影石で作ったので、もう70年近く経ち、あちこちガタは来ている。それをすっかりと上だけ新品にするかどうか。それとも壊れた個所だけの修復か、それは息子たちに任せよう。墓はわたしの親父が買った。わたしを飛び越えて息子たちが次の墓の費用を出すというので、隔世で家も墓も耐用年数があるから、建て直さないといけないようだ。風化もするし、あちこち痛むのは、風雪にも耐え、地震にも耐えて建っているからだ。石とはいえ、よく古い墓地を見たら、墓石がかなり倒れたままになっている。無縁仏だけにはさせたくない。いまのところ、叔父一家が入るので、そこには男の子が孫として三人いるし、わが家にも女の子五人の孫に去年は男の子が一人生まれた。それが三男のところで、彼も将来は青森に骨を埋める覚悟で、家を見てゆこうと決めたのか。兄二人は東京で働き、青森に帰ってくるのかどうか判らない。そんな身内のことを思いながら、おまえはどうなんだと、わたしが一番親戚から指をさされそうだ。すみません。頼りない家長で。


稲毛海岸は都心に近いリゾート

 夏の間、千葉の稲毛の浜では、二度ほど海に入っただけで、遊泳禁止とパトロールもしていて、あまり泳いでいなかった。ただ、腰までつかっただけだった。後は、何回か来ているが、ウッドデッキのテラスにねそべり、日焼けをしていた。青森にいたときも同じで、浅虫で暮らしたときも、サンセットビーチで、市内にいたときは合浦公園の砂浜にシートを敷いて、本を読みながら日焼けした。どこに引っ越してもやっていることは変わらない。おかげで、今年も何回かあちこちで泳いだが、真っ黒に近くなる。ウエルダンまではゆかないが、ミディアムぐらい。黒いと締まって見える。白豚がぶくぶくよりは、黒豚のほうが精悍には見えるだろう。
 わたしがいつも自転車で行く稲毛海岸は、日本で初めての人工の砂浜なのだ。松も植えて、白砂青松の日本の海岸美を復元した。わたしが越してきたのは今年の2月であったが、5年くらい前に相方と来たときは、砂浜は白くはなかった。久しぶりに来て見たら、真っ白でさらさらの砂が気持ちいい。千葉県のテレビで毎日やっている空中散歩という繰り返しの映像だが、飛行機で千葉県を映した番組があるが、それで稲毛海岸を紹介したときに初めて知った。昨年に、オーストラリアの砂漠から白い砂を輸入して、敷いたというのだ。道理で不自然だと思った。こんな白い砂浜は日本ではあまり見たことがない。
 いまから6年くらい前だったか、オーストラリアのメルボルンに旅行したとき、日帰りの現地ツアーに参加したことがある。それはブッシュウォークという歩かせるツアーで、ガイドもつくが、日本人はわたし一人で、みんな世界から来た若者が多かった。英語の説明で、ちんぷんかんぷん。その一行が白い砂漠に連れて行かれたのだ。わたしはどこに連れてゆくのか分からなかった。山道を登り切ったところに出たら、前を歩く人たちから歓声が上がった。何があるのかと、わたしも続いたら、そこは山の上に広がるどこまでも白い砂漠だった。いままで旅行して、その不思議な光景は忘れられない。
 白い砂に体を埋めると、なんとも奇妙な体験ができる。自分の体が白の世界に吸い込まれ、同化してゆくような感覚だ。さらさらとしているのが気持ちいい。
 日経新聞によると、再来年に完成する予定で海に延びるウドデッキができるそうだ。デッキの上にはカフェなども設けるとイメージ写真が出ていた。長さ90m幅10mとあり、ライブもできるのだとか。さらにリゾート感は増すだろう。その吹き抜けのある屋根付きの空間はわたしの日焼け読書にももってこいだ。さらに新聞によれば、温泉施設も隣接してできるとか。またひとつスーパー銭湯が増えるのも嬉しいが、そのころにはわたしはここにはいないのだ。
 いまでも稲毛海浜公園は綺麗なところで、海に隣接する広い公園はよく作られている。三陽メディアフラワーミュージアムという植物園がある。最初に入ったときが初夏であったか、温室ありガーデンありで、よく作られた植物園だと感心した。そこの庭園も西洋風で誰でも入れるが、わたしのお気に入りの場所で、ガーデンテーブルとベンチに座って、よろしく食事をしたり、読書をしたりする。どこか外国の風景を意識していつまでもいられる。四季の花がいつもどこかで咲いている。
 公園の中にはバーベキューをする森がある。今年はコロナで海もダメ、植物園もしばらくは閉鎖していた。だから、引っ越してきてから、さあ、泳ぐぞと息巻いていたのが、初年度から出鼻をくじかれた。大きな流れるプールもあったが、確か今年は土日だけの営業で、一回も行かなかった。どうも子供らに交じって、キャーキャーと遊ぶ老人の姿は想像したくない。
 ヨットハーバーやレストラン、日本庭園に稲毛の自然と歴史を展示する建物もある。ビーチの長さが3キロというから、歩いても疲れる。そんな海浜公園には、うちの前の道路を一直線に南下すれば、海に至るので分かりやすい。歩いたこともあるが、25分はかかる。自転車ならその半分で行ける。途中にも公園があり、民間飛行機が初めて飛んだ記念碑が建っている。初めは何かと思ったが、わたしがよくぼんやりとたたずみに行く公園の端にあった。その先の海浜公園にあった稲毛民間航空記念館は残念ながら閉館になり、入ったことがない。
 東京に一番近い海水浴場はどこかと地図で探して、上京してきた最初の夏にここに来ていた。千葉は遠いと思っていたが、いまは住んでみると実に交通の便はいい。稲毛海岸駅から京葉線で東京駅まで35分で行けるから、現在も高層マンションが次々にできている。都心で暮らすよりは、ちょっと離れた千葉がいまは人気が出てきている。
稲毛もリゾートとして施設を増やし、イメージアップを図り、都内からの移住者を増やそうとしているようだ。街として人口が増えてもまた困ることが起こる。いまのところは京成とJRと三本の線が通っているが、それも運行本数を増やして輸送能力を確保する余地はまだあるが、いずれ混雑は避けられない。晴海がそうだった。中央区ではもうマンションを建ててもらいたくないと、住人の不便と不満が解消できないでいた。病院や学校、保育所、アクセスの問題を人口増加と共に解決してゆかないと、地域が立ち行かなくなるのだ。千葉はまだ土地も広いし、余裕はありそうだ。都心からの移住者はますます増えてゆくだろう。