コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

鳥取県と島根県に見倣えば

 全国のコロナの感染者累計を見たら、島根県と鳥取県が相変わらず一番少ない三桁で抑えられている。最初は岩手県がずっとゼロであったのが、途中で増えてきて、東北を代表して頑張っているから応援していた。それが落伍したが、秋田県も奮闘していて感染者が少ない。
 どうして山陰の二つの県の感染者が少ないのか、その研究をしたら、生活スタイルか人流か、何かあることが分かってくるのではないのか。ネットで調べたら、島根県の人口は66万、鳥取県は55万と全国のビリに並んでいるほど、人口は少ない。だけど、人口比からしても感染者数は圧倒的に少ない。観光地でもあるが、それほどでもないのか。わたしは若いときに二つの県を旅行して、鳥取砂丘に松江温泉、出雲大社と日御碕灯台にも上ってきた。温泉も有名なところはあるし、魅力はあるところなのだが、高速道路がまだ繋がっていない。それだから、大阪から高速だけで走れない。それと新幹線が通っていない。交通の便は悪いのだ。まだ東北のほうが、青森までも秋田、山形新幹線と、東北はすべての県が新幹線がある。同じ田舎でも山陰は捨ておかれたような感じだ。それはやはり人流がないからだろう。利用者が少ないと、高速道路も新幹線も赤字になる。採算が取れない。Go toトラベルのキャンペーンでもなんとなく不便なのでそこを選ぶ観光客が少ない。そういうことで人流がないことが感染の少ない理由とは思うが、それなら、やはり、県をまたぐ移動を禁止するロックダウンよりないのか。
 感染者は北海道も多いが、札幌などの都心部だけで、広大な北海道だから、郡部のほうは感染者は少ないのではないのか。前に調べて驚いたのが、いまは神奈川県も東京に並んで多くなってきているが、それは横浜や川崎の人口の多い都市部だと思うが、平塚市でも30人を超える感染者が毎日のように出ている。都心まで電車で1時間で行く通勤圏内で、都心まで出勤する人は多いだろう。それで都心繋がりで感染してくる。平塚という人口26万の地方都市が青森県130万以上の人口があるところの一日の感染者30人以下より多いので、同じ地方都市でも東京繋がりであるかないかは大きい。それだから千葉と埼玉も多くなる。それは判り切ったことだが、すべて東京が諸悪の根源なのではなく、人口密度の問題もある。密にするなと言っても、あの通勤ラッシュはどうにもならない。人が多すぎる。
 わたしも青森出だから自分の故郷を考えたらよく解る。田舎の町というのは、実に人が希薄だ。青森駅前商店街から横に伸びるアーケード街の夜店通り商店街というところがあり、そこにわたしは10年前に古本屋の支店を出した。デパートに挟まれたエリアで場所はいいところなのだが、人が歩いていない。シャッター通りで閉めているところが多い。人流がないところでは商売は難しく、1年で閉めてしまった。
 市街地はどこに行っても人の姿がないくらいだ。みんなどこにいるのかと思うほどだ。もっと田舎の町に行って、道を誰かに聴こうとしも、歩いている人がいないので困った経験はいくらでもある。店もやっているのかいないのか戸は開いていても電気は消していて、店主がいない。そんな通りを歩いていて、マスクをしている意味がない。人間を探すのが大変なのだ。
 江戸時代にもいろんな伝染病が流行り、江戸では多くの人が死んだ。天然痘でも何万人も亡くなる。鎖国していた時代でもコレラやベストも入ってくるが、やはり人口が密のところで流行る。脚気はビタミンBの栄養不足からなるが、それでも大勢が亡くなる。江戸でなる病気として江戸患いと呼ばれ、そういう武士は地方へと出されて、田舎で何か月か暮らすと治って帰ってくる。江戸では白米ばかり食べていた。田舎は玄米だった。それが原因とは当時の人たちは解らなかった。
 いまは都会でも田舎でも食べるものは同じだから、そういう栄養が原因ということはないだろうが、それでも長野県が長生きなのはレタスをよく食べるからだという研究結果もあった。都会ではなかなか新鮮な魚や野菜果実が食べられない。田舎は産地で、鳥取と島根もその土地の人たちがよく食べている地のものに何か感染に強くなる食べ物はないのか。生活習慣と食生活も分析してみたら、そこに隠された特効薬が見つかるかもしれない。単に人口が少ないのと人流が少ないだけの理由ではない、他に何かありそうだ。それが山陰のファクターXの研究対象としてどなたか調べたらいいと思うのだが。

わが家の戦争

毎年のように8月15日になるとテレビでも新聞でも戦争の特集になる。何十年前になったろうかと、計算はしやすい。わたしの年に6つ足せば、それが終戦の昭和20年で覚えやすい。わたしは戦後生まれで、戦争を知らない子供たちだ。それでもわが家には戦争の臭いはしていた。それは仏壇に飾ってあった沖縄で戦死した叔父の軍服姿の遺影だった。いつもそれを子供のときから見て育つ。わたしの寝床は仏壇の前で、中学になるまで、仏壇の前で祖父と寝ていた。じいさん子であったから、中学生になってもじいさんの隣で寝ていた。じいさんが一人で下の仏間で寝ているのは淋しいだろうなと、一緒に寝ていた。高校の受験勉強で遅くまで二階の子供部屋にいたら、祖父は、まだ寝ないのかと迎えにきたものだ。


叔父の遺影は俳優の篠田三郎そっくりで、美男子であった。許嫁がいたようだが、戦争には行きたくないとぽつりと本音をおふくろに話して出征していった。祖母はいつか帰還するだろうと、戦後もずっと待っていた。戻ってきたら着せてやろうと、大島の浴衣も仕舞っていた。親父は昭和23年の夏に、電報を舞鶴から送って、シベリア抑留から突然に帰還した。そんなこともあるかと、ずっと家族は叔父を待ち続けてきたのだが、昭和27年になって、政府から戦死報告が送られてきた。中国戦線にいたとばかり思っていたのに、沖縄で戦死したと、その日付が昭和20年5月1日とだけ書かれていた。誰かそれを見た人はいるのか。部隊が玉砕した日というのだろうか。死んだとも何も解らず、遺骨も何もない戦死報告で、戦後、わが家に仏様が出たというので、青森の三内の霊園に墓を建てた。それまでは八戸に菩提寺があった。


浴衣は用がなくなったと、後に大事にとってあったのが、わたしに巡ってきた。一度だけ袖を通したろうか。しばらくはタンスに仕舞いこんでいたが、それは古本屋から東京に出てきたときに呉服屋の親戚に上げた。


9年前だったか、初めて沖縄を訪ねたとき、わたしは那覇でレンタルサイクルを借りて、ひめわりの塔など、一周したが、そのとき、叔父のことを思い出して、平和祈念公園で、戦没者の礎に叔父の名前を見つけた。そのときは、園内にある検索のコンピュータで出身地の青森県と名前を入れたら、機械からその名前の場所が印刷して出てきた。それを手に広大な石碑が並ぶ中から、青森県のところで叔父の名前を見つけた。そこでケータイで写真を撮ると、従兄弟や姉妹にメール添付で画像を送った。前に親父たちもここに来ていたが、弟の名前を見つけられずに迷っていた。いまはいいものができて、位置が印刷されて探しやすくなった。


戦死した伯父は後二人いる。おふくろの兄が二人、一人は中国戦線で、もう一人はニューギニアで死んだ。それは生き残って復員した仲間の兵隊で、同郷の人が教えてくれた。数十人だけが奇跡的に帰ってきたが、大半は戦闘で戦死したのではなく、飢えと病気で死んだという。病死した伯父の遺体はジャングルの川の側に埋めてきたという。ニューギニアに墓参のツアーがそれからは何回か行われ、青森の知り合いも、それに参加したというが、ジャングルの中には入れず、飛行機でその上空を飛んで、空から供養したという。


4年前に、わたしはボルネオに旅した。ニューギニアからは離れているが、オラウータンが生息するジャングルが公園になっていて、そこを二人で歩いたが、椰子ばかりのジャングルで、そんなところで戦って死んだのだろうなと、なんとなく似たような熱帯の風景で伯父を思った。


戦争体験者でわが家で唯一の長老の百歳になるおふくろだが、戦争のさなかを満州で逃げ惑い、引き揚げてきた親でさえ、もう百歳になる。後数年もしないうちに、戦争体験者はいなくなる。語られるのは本や記録フィルムだけだろう。


去年の春まで千代田区の千鳥ヶ淵近くで暮らしていたが、そこにも戦没者墓苑があり、無縁仏のニューギニアなどから遺骨収集団が行って持ち帰った何万という柱が埋葬されている。わたしは散歩がてら近くなのでよく行った。靖国神社も近いので、九段の坂をよく歩いた。生活圏にいつも戦争の臭いが漂っていた。小石川で暮らしていたときも、後楽園駅の隣に東京都の戦没者霊苑があった。綺麗に整備された公園になっていて、たまに散策していた。


8月になると生前に逢ったこともない伯父たちのことを思い出す。おふくろは、わたしのことをニューギニアで死んだ兄に似ているとよく言う。生まれ変わりのようだと。ギターを弾き、詩を書いていた伯父と性格と顔も似ているというのだ。遠ざかる戦争に思いだけがいつまでも残り続けている。

墓参りはいつしたか

墓参りはこの2年は帰れないから、していないが、古本屋を出てから、海外に行って、東京放浪したときは、もう二度と故郷には帰るまいと決めていた。それだから、青森の墓参りをしたのは、5年前が最後だったろう。お盆と彼岸だからといって墓参りをしていたら、できないこともあるので、青森に帰ったときにするようにはしていた。


毎年、墓参りのことを思い出すのは、7月になると青森市役所から、青森市で管理している三内霊園にうちの先祖代々の墓があるのだが、そこから霊園管理料の郵便振替が送られてくるからだ。わが家の使用しているのは2区画分あるので、年に1区画で1050円振り込む。たいした金額ではない。市営だから安い。それが送られてきたのは転送されてきていた。住所は一昨年までの千代田区になっている。それから千葉市に引っ越したときも青森市役所には住所変更を連絡していなかった。郵便局の転送期間も一年と思ったが、二年もしてくれている。そのうち、返されたら管理料を5年払わなかったら、無縁仏として青森市に没収されてしまう。それではいけないので、このたびは、市役所に電話で新しい平塚の住所を連絡した。ここにはしばらくはいるから、あちこち転々とすれば、銀行からも先日はメールが来ていたので、送った郵便が戻されたのだろう。住所変更がいっぱいあるから面倒くさい。


わたしの居所が分かったときは、身内は安心したろうが、妹が心配して、霊園管理料は払っているのかと、そのことで去年はおふくろからも電話がきていた。毎年、ちゃんと払っているよと連絡した。どこに行っているか分からないフーテンの寅さんみたいなもので、東京に出てきた7年前から8回もわたしは引っ越した。1年とひとつところにいない。それだから身内も、いまはどこにいるのかと、わたしはどうしようもない長男と思っているだろう。


故郷には、妹がいて叔父が一人いる。従弟たちもいて、友人も多い。おふくろは施設にいるが元気だ。家を売ったのが12年前だったか、家族はバラバラになり、わたしもいまでは青森に帰ってもホテルを予約して行かないと寝るところがない。青森で唯一わたしの名義になっている場所というと、三内の墓なのだ。


古本屋を出されて、帰るところがなくなると、冗談ばかりの親戚の呉服屋の旦那が、住むところがあるじゃないか。三内の墓というから、そこならそのままずっと死んでも暮らせるなと、墓の穴の中で生活できるようにしろというので、それもいいかと二坪ぐらいの地下室の素敵な居住空間を想像したりした。


わたしの叔父は霊園の近くに住んでいるので、たまに墓の草むしりなどしてくれている。そこにはわたしの従弟、叔父の次男が入っている。亡くなった親父の兄、わが家の長男であった伯父の満州で亡くなった娘も入っている。その家族は戦後、創価学会になり、墓を別にしたので、墓はわたしの名義になる。叔父は、自分たちは分家だが、墓は一緒にさせてもらいたいというので、これはわたしの考えなのだが、分家であってもまた墓を買ったりする無駄はない。一族郎党倶会一処でいいのではなのかと、うちの宗派の浄土真宗ではどうせ、行くところは一緒なので、そうしたらいいと思う。そのほうが賑やかでいい。


これからは少子化で、後継ぎもいないで、シングルばかりになると、墓なんか誰がみるのかとなる。みんないずれは無縁仏になり、三内霊園でも無縁仏の墓石がピラミッドのように積み上げられているところがある。それは引き取り手のないもう潰えた家の墓石なのだ。驚いたのが、そういう墓石も粗末にされて、墓地の石段にされていたときがあった。よく見たら、古い風化された文字がある石だが、墓石を踏んで歩くというもバチがあたる。


いまは家も空き家ばかりで、青森でも6軒に1軒が空き家というから、今後はますます増えてくる。それと同じで墓も廃屋ならぬ廃墓が増えてくる。後継ぎがいないから、どんな立派な墓や仏壇を買っても先のことを考えたらいらないのだ。だから自然葬でいいと、墓をもたない人たちも増えてくる。どうせ、百年先のことを考えても、自分のことは誰も知らないのだ。


わが家は孫娘ばかりが5人だったが、三男のところで一昨年ようやく男の子が生まれた。女の子ばかりだから、墓守がいない。男の子なら安心でもない。生涯シングルであったら、それで終わり。そんな先のことまで心配しなくてもいいように、親戚一同で墓に入ったら、誰かが守ってくれるだろう。それでいい。


思い出したが、先日、宮古島に行ったとき、道路端にずらりと小さな家が並んでいた。門もあり、入口もあるが、人が住めるものではない。それが墓だと判って、沖縄も台湾も同じだなと思った。台湾に行ったときももそうした家のような立派な墓を見た。みんながそうではなく、金のある家だけだろうが、その風習はよく似ている。


わが家の墓も70年以上経った。そろそろあちこち痛んできたので、息子三人が話し合い、墓を直すから費用分担しようと言う話も出ているようだ。わたしは口をはさまないが、わたしはその墓には入らない。海に撒いてもらう。息子たちだから、従来の墓をそのまま新しくするのだろう。時代は変わる。墓もハイテクになっていい。太陽光発電でデータの入ったUSBメモリーを差し込めば、故人の思い出から顔が出てきて何やら話したりしているディスプレイがありと、読経もネットで配信、坊さんは呼ばなくてもいい墓で、墓参に来られない人にはその模様をリアルタイムで送信する、そういう墓にしないと。そうなれば、いまのコロナで帰れなくても、オンライン墓参りができる。ところで、あの世のメルアドってあるのか。