コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

AB型はウイルスに弱い?

 本当かどうか、だいぶ前に読んだ本に、血液型のAB型が人口比で少ないのは、かつてはいっぱいいたのが、その血液型の人は疫病に弱く、いまから500年くらい前の感染症でAB型だけがバタバタと病に倒れて、それで少数になったのだとか。
 血液型は不思議で、その本によれば、人類が発生して全世界に移動する前のアフリカでは大方がO型であったという。いまでもアフリカではO型の血液型が圧倒的に多いのだとか。そういう国々では、血液型占いというのはナンセンスで、それを雑誌などで出したら、きっとみんな笑うだろう。コロンビアとベネズエラでは全人口の100%がO型というから、絶対に血液型で判る性格や運命ということは口にしてはいけない。昔読んだ本によれば、中南米でAB型がいないのは、ウイルスで全滅したのだとか。インドではB型が多いと、世界でもその国と地域で割合が違うのが面白い。 
 AB型は日本では人口の約1割、一番多いのがA型で4割。それが、ウイルスに感染するリスクが、O型の人と比べたら、AB型は1,6倍という結果が、最近話題になっていた。
 わたしもAB型だ。うちの姉妹は二人の姉もAB型で、妹だけがA型だ。父親がB型で、母親がA型なので、AとBから生まれた子供はAB型が多くなる。みんなコロナには注意しなければいけない。
 そういうウイルスに弱い体質というのはどうして起こるのか。その本によれば、古代からAB型というのはなかったのだとか。ここ千年以内に地上に出てきた新しい血液型というのだ。それで、新種のウイルスへの免疫ができにくいとか。あるいは昔から疫病に耐えてきた他の血液型に比べて、ウイルスの攻撃の的にされたとか。解らないことが多い。それが今回のコロナで東洋人が感染が少ないのはどうしてかと、ファクターXと言われて来た。それもどこまで真実なのか、東洋でもインドネシアは感染者が上位のほうだ。欧米に比べたら、ずっと黄色人種の感染は少ないが、ところによっては突出するのがおかしい。
 AB型の人間は元より少ない絶滅種なのが、今後、コロナでまたまた減るのかと思うと、友達がいなくなるように淋しい。よく言われるのが、AB型同士が出会う確率が少ないから、もし、そういう女性が現れて好きになると、結婚に至る可能性は高いとか。男の1割と女の1割が出会う確率は1%だろう。という計算は正しかったか。それだから、運命の人と思うらしい。実際に、わたしの二度目の奥さんはAB型であった。ようやく巡り合ったと、運命的な出会いを感じて再婚してしまって、互いに失敗する。確かにものの本によれば、そういう二人はツーカーの仲になるというのは暮らしてみて判った。ただ、面白くないのは、考えに考えたジョークを元妻に言えば、「ふん、こうこうと言いたかったんでしょう」と、手の内が見透かされ、素直に笑えよと思っても、冗談もバレバレで先に言われてしらけた。阿吽の呼吸というのも周囲にはよく言われた。息がぴったりだと。仕事をさせたらいいのだろう。確かに古本屋で二人で店にいたときは、ベストメンバーであった。
 血液型でそんな昔のことも思い出してしまった。ともかく、コロナで絶滅させられないよう、自分で自分を保護しなければならない。動物園で囲ってくれないか。

消えた夏のアイテム

夏になると思い出すのが、蚊帳だが、あれはいまは必要がなく、売っていないだろう。昔は蚊帳専門店もあった。いまは映画館だけしかないが、青森の古川はシネマデイクトさんが奈良屋という名前の映画館であったときに、その隣で蚊帳を売っていた。いまのように、家には網戸というものがなかった。それよりアルミサッシではなかったので、隙間があり、いくらでも虫は入ってきていたし、建物自体が密閉されていなかったので、蠅でも蚊でも外と同じように自由に入り込んでいた。それで、寝間に蚊帳を吊る。部屋の四隅の天井に、蚊帳を吊るフックがあり、それに掛けるのだが、夜に蚊帳を吊ると、子供らはまるでキャンプでテントを張ったように喜んで、その中に潜り込んだ。


卓袱台にも食べ物のための小さな蚊帳がかぶせてあった。それは蠅がおかずにたからないようにするためで、まだ仕事から戻らない家族のために晩御飯は用意されていた。


あれはどこにいったのかと、思い出したのが、蠅叩きだ。いまもどこかで売っているのだろうか。使っている店も最近は見たことがない。蠅も昔ほど多くなくなった。それほど、街やわれわれの生活も清潔になってきたのだろう。というものの、いま、わたしの部屋にはコバエなのか小さな羽虫がうるさい。どこから入ってくるのか。網戸に隙間があるのか。それとも玄関から入ったときに、よくマンションで不法侵入する手口の共連れで、わたしの背中にくっついて入ってくるのか。それでも小さな蠅の赤ちゃんだ。それはたまに殺虫スプレーで退治はしている。そういうふうなスプレーも各家庭にはあるし、玄関や窓には、虫が近寄らない防虫剤を吊ったりしている。いまは市街にはドブがない。みんな暗渠にしてしまい、生ごみもその辺に捨てたりしないし、衛生管理がなされているので、蠅も蚊も少なくなったのではないのか。


蠅叩きは食品を扱う店ではよく使っていた。だけど、果実についたらバシッと叩けば、売り物だから買うほうは気持ちが悪い。それでよく、天井から蠅取り紙を吊るしていた。それに蠅がいっぱいついていて、不気味だった。食べ物がそのために美味しそうには見えない。いつからか、それもなくなる。ロール状になって引き出すと、ガムテープみたいになっていて、ベタベタとしていて蠅がくっついたら離れられない。


紫外線のような防虫用蛍光管もあった。それはいまも食堂の厨房などで使われている。受け皿に感電した虫の死骸がいっぱいある。


海に泳ぎにゆくと、こんがりと焼きたいと、若いときは、サンオイルというものがあった。それをビーチで塗り合った。コーラ焼きというのもあって、コーラを体に塗って日焼けするといい色で焼けるのだとか。本当かどうか、みんなやっていた。いまは逆に美肌で日焼け厳禁、日焼け止めをみんな塗っている。


今日は、驚いたのが、海まで歩いたら、途中の道で日傘をしている若い男性を見た。男の日傘もあるとは聞いていたが、何か違和感。いまはそういう時代なので、別にどうでもいいが、男もこんがりとは焼かなくなったのか。わたしは真っ黒に毎年焼きたいと、ウエルダンよりも焦がすくらいに黒くしたい。


ビーチではくろんぼ大会というコンテストもあった。青森でも海水浴場でやっていた。くろんぼというのはいまは差別用語で使えないというが、色の黒いのを自慢する大会なのだ。一番黒い人には賞品が出た。子供たちも、毎日のように海水浴場に行っていた。わたしも小学生のときは、自転車で合浦公園という市内の海水浴場によく通った。


子供だけでなく、大人も真夏はランニングシャツを着ていた。いまはそういう姿は見かけない。ノースリーブはあるが、白いランニングシャツで歩いている人は見たことがない。Tシャツばかりだ。わたしも一枚も持ってはいないが、若いときはそればかりだった。どうしてか下着売り場でもいまは売っていると思うが、目につかない。


夏の少年というとランニングシャツに麦藁帽子、虫取り網を手にしているのが定番だった。


下駄に草履というのもだんだんとなくなる。夏の宵は涼みに通りを歩く人たちの下駄の音がよく聴こえていた。窓を開けているから、外の音が家の中のようによく聞こえた。下駄もなくなったのは、浴衣で出かける人が減ったからだろう。そういえば、わたしも浴衣を若い時に持っていたが、いつからかなくなっていた。下駄もどこに行ったのだろうか。引越しのたびに処分してきたからだろう。いまは浴衣を着るときは温泉に泊ったときぐらいだ。そこには下駄も草履も置いてある。


今年は花火大会もまた中止だろう。縁日もなくなり、なんだか夏はどこかに行ったかのようだ。夏かしいと思い出すことばかり。

七十にして矩をこえる

 孔子の時代は70歳以上まで長生きする人はあまりいなかったのか。而立が30歳というのは遅いのではないのか。不惑はなんとなく浮気をしたがる年で判る。知命の50歳は天命を知るまで悟れるか。まだまだ脂ぎっている。60歳の耳従も頑固じじいになるころなので難しい。わたしの70歳で従心とは、もう好きに生きていいのだが、道徳的模範に生きて無理しないでというところ。昔ならもうじきお迎えがくるのだから、何をしてもいいというのでもない。なのだが、どうも自分の限界を忘れている。体が思うように動かない。たとえば、柵をひょいと越えられると思っても若い時のようにそうはゆかなくなる。足が引っかかる。階段もそれで踏み外す。あわやというときもあった。足が上に上がらなくなっている。段差につまづいて転ぶということもする。それで老人用の靴はそうならないために、つま先部分が少し上にカールしている。
 青森の施設にいるおふくろが部屋で転んで顔面を打った。数日前のことだ。妹から連絡があって、その青たんのおふくろの写真も送ってきた。青く腫れあがっていたが、それも数日で治ってきたとか。心配して電話をしたら元気そうな声で安心した。年寄りが転ぶというのはよくない。それが原因で寝た切りになったり急に老け込んだりするらしい。転んで死ぬのが多いとか。軽く考えてはいけない。
 わたしも若いつもりで無理をする。自分でこれぐらいできると思う。ボードに乗っても立てない。波があればバランスもとれない。カヌーをしていたときは平気だったが、あれから25年は経っているだろう。自転車でサイクリングも遠くまで走って、疲れ果て、ここからどうやって戻ろうかと、帰りの余力もない。歩いてもそうだ。どんどんとどこまでも歩けると思っている。まだまだ若い者には負けんぞと、遠くの町まで歩いたはいい。帰りは買い物荷物もあって、へこたれて、バスで帰ってきたりした。バスがあるからまだいい。足がなかったら、どうするつもりなのか。特に山中のハイキングで人が歩いていなかったら、へたばって野宿でもするのか。
 なんのこれしきと、仕事をしていたときもよく回った。警備員のときは一日20キロは巡回で歩く。34階のオフィスビルの上からずっと歩いて下まで。それを二回する。敷地内をぐるりと歩くだけでも4キロはある。それを一日4回する。通勤も入れたら、普通に26000歩の20キロは歩いていた。いまは少し減らして一日の目標は15000歩の12キロにしているが、それでも普通の老人の倍で歩きすぎなのだ。
 最近は、どうも体が自由に動かなくなる。指先まで痛くなる。体のあちこちが筋肉痛で疲れやすい。同じ高校の大先輩の三浦雄一郎さんは二回り以上年上でも、いまだにエベレスト登頂とかスキーヤーとしても現役だと、そういう超人と一緒に考えるところがおかしい。第一鍛え方と持って生まれた体も違う。
 階段を上がるときも手すりに掴まる。起き上がるときも、どっこいしょと声が出る。最近ではエスカレーターやエレベーターを探す。できるだけ楽しようと思う。それでもバスは乗らない。駅まで2キロくらいあるが、住まいの前にバス停があり平塚駅行が頻繁に停まるのに乗らない。帰ってくるとベッドにバタリと倒れ込む。疲れたと、感ずる。年なんだろうかと、ようやく自分の老齢を認める。運動は太極拳ぐらいがちょうどいい。妹からメールで「あまり無理しないで、もう年なんだから」と、書いてきた。そうか、年なんだ。少しずつできることが減ってくることが淋しい。好き勝手に生きても人様の世話になったり迷惑をかけなければいいではないかと、それでもどこか不良じじいで、いまは自分だけのことで限界を越えないように生きている。