コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

孫の手 孫の足

 一人暮らしで困るのは、背中が汗などで痒くなるときだ。手が届かない。それで思い出したのが、野生の象たちは痒くなると、大木の幹に体をこすりつけるという。それで、わたしも部屋の角に背中をつけてごしごしとする。それは気持ちがいい。ただ、背中の窪みなどごしごしではできない部分もある。何か長いものはないかと探す。スチールの定規でやってみるが、それは曲がらないからその痒い部分に当たらない。鋏は短い。包丁は危険だ。いろいろと試しても痒いところに届かない。そうなるとますます痒くなる。
 翌日は、孫の手を買いに100円ショップに行ってみる。そこならなんだって売っているだろう。探しても見つからないので、売り場の人に聴いたら、化粧道具のコーナーで売っているという。そうなのか。あった。昔ながらの竹でできた孫の手が。反対側にはそろばんの玉のようなものが付いているものや、ゴム製のピンポン玉大のが付いているものもある。さらに刺激が欲しいときは、それでごりごりとやればいいのか。孫の手も進化している。
 孫の手とは孫と一緒に暮らしているじじばばたちが孫に掻いてもらったからそうついたのだとは思うが、わたしは孫と暮らしたことがないので、そういう経験はしたことがない。わたしが幼少のときは、孫の手になったことはあった。祖父が、わたしをよく呼んで、背中を掻いてくれと頼む。わたしはじいさん子であたので、じいさんと一緒に中学生まで寝ていた。
 相方と暮らしていたときも、よく頼まれて背中を掻いてやった。汗かきの人であったので、下着の締め付けもあり、夏は女の人は背中が痒くなるようだ。そのためにシッカロールもよく使っていた。どこだと手を背中に入れて掻いてやる。そこそこと、左だ右だ下だと、結局全体が痒いようで、痒いところが伝染して、あちこちが痒くなる。背中に爪痕が残れば、何かあったとき、背中の傷だらけを見つけて、これはDVだろうと、わたしは逮捕されまいかと、冗談で言ったことがある。
 一人暮らしの人のために、背中掻き屋という商売もできるかもしれないと、そんな冗談も考えた。「えー、背中掻き屋ー痒いところに手を貸します。一回百円」それは元手は手だけで、資本がいらない商売だ。「背中掻き屋さん、お願いするわ」と、若い女性なら大歓迎。
 孫の手ではなく、孫の足というのもあればいい。それはたまに遊びに来た孫たちによく頼んだ。3歳くらいのチビたちに、じじの背中どんどんごっこをやろうと、遊びにして、わたしの背中に乗って、どんどんと飛び跳ねてもらう。それがまた気持ちがいい。3歳くらいが一番重さがいい。それを見て、嫁が面白そうだから、わたしが乗ってあげると言うと、「おまえ、おれを殺す気か、自分の体重を考えてみろ」と、そういうことも昔はあったな。嫁に背中に座ってもらい、ごりごりとしてもらうのは気持ちがいい。尻に敷かれるというのも気持ちがいいものだ。
 最近は誰もいないので、背中ごりごりのマッサージ器を前に通販で3千円で買ったのを使っている。電動で、ぐりぐりと動くから、背中の痛いところも痒いところもそれでもんでくれる。
 孫の手と孫の足もいまは電動だなんて、なんとなく味気ない。それにしてもコロナもあるが、孫の顔は見たいが、近くにいても逢えないだなんて淋しい。

それでも図書館へ行くのか

 大雨注意報が出ていた。ところによっては警報。全国的に居座る前線が雨を毎日降らせている。よく、そんなに雲の貯水槽に水があるものだ。九州などでは二日間で千ミリ近いというと、1メートルの雨が降ったということだ。それはすごい。まるで、空が壊れたかのようだ。水漏れなんていうものしゃない。空のダムの決壊だ。
 平塚市でもその朝だけでも100ミリの雨が降ったというから、どうもミリというと実感がない。10センチと言うと、これはすごいとなる。そんな日曜だが、それでも明日の月曜日は図書館が休みだから、どうしても、今日中に本を返して借りにゆかなくてはいけない。不要不急の外出はお控えくださいと呼びかけていたが、それは今度はコロナではなく大雨なのだ。
 大きな傘を持ってゆこう。小さい傘ばかりがいまは売られているが、あれは流行りでも役に立たない。マンションを出ただけで、待っていましたとばかり、どどどと音が鳴るほどの大雨。歩道はすでに水溜まり。おっと、これではスニーカーでは濡れるなと。家にあるゴム長を履いてこようかと思ったが、まあ近くだからとそのまま出る。ゴム長と言っても解らない人もいる。ゴムの長靴のことだ。青森ではみんなそう呼んでいる。雪国だから、冬はゴム長。その製造工場も青森市にはあるくらいだ。
 一直線の市役所の建物が遠くに見えるいちょう並木通りを歩く。ずっと人影がない。日曜だから車も人も出てもいいのだが、車もあまり走っていないし、歩道を何百メートルもの間、歩いているのはわたし一人だ。横の通りを見ても、誰一人として外に出ている者はいない。いままでこんな雨も人間のいない町も見たことはない。
 近くのセブンには車が何台か止まってはいた。横浜ゴムの工場は休み。郵便局の前を通ると、ようやく郵便を日曜でも開いている窓口に出しに車で来た人と会う。おお、人間だ。人間がいた。思わず嬉しくなる。
 わしの背中のバッグはもう傘もきかないほど濡れている。本が濡れたら困る。いまの使っているバッグは完全防水ではなく、撥水でもない。濡れて困るものはさらにビニール袋に入れてから仕舞う。車道は川のように雨水が流れている。歩道もそれに近い。それでも歩道には傾斜がついているから、建物の近くを歩けば、まだ水溜まりではない。スニーカーは古いので裏側がすり減っていて、滑る。タイルのところは注意してそろそろと歩いた。こけたらおふくろのように顔に青タンができる。おふくろも先週、施設の部屋で転んで、顔面を打った。その画像を妹が送ってきた。目の下が紫に腫れている。これはすっかりとお岩さんで夏向きだ。たまにその画像を眺めてはぞっとして、暑さを忘れている。
 図書館までの道のりで自転車は当然走っていないし、歩いている人と出会ったのは一人だけ。まるで、この街から、人間だけが消えたか、全員が避難して、何も知らないわたしだけが生存者として取り残されていたかというようなものだ。
 横殴りの雨とはいう。傘なんかしていても、風も強い。靴はぐしょぐしょで気持ちが悪い。こんなことなら、スニーカーに洗剤をつけてこればよかった。ついでに靴の洗濯ができたのに。
 命がけで図書館に、どうしてこんな目に遭いながらも来なくてはならないのだ。それは根性以外のなにものでもない。ようやく半分ずぶ濡れ状態で、なんとか図書館の玄関に逃げ込めた。図書館の入口の本棚四本には、除籍本がたまに並べて置かれている。どうぞご自由にお持ちくださいと。それがその日はどっさりとあった。ないときはゼロのときが多いが、その日はなんと嬉しい。シールが貼ってあるから転売するなどせこいことはできないが、読みたい本がいっぱいある。どちらかというと動物学と植物、医学もあるが理系だ。それでも専門書ではなく、割合と一般的な本なので、20冊くらいリュックに詰めた。エコバッグにも入る。単行本ばかりでもないが、大きな図鑑はパスした。
 二階の図書館に行ったら、なんと、客がゼロ。こんなときは見たことがない。この悪天候でも図書館に来る変わり者の顔を見てみたいと、自分で鏡に映してみる。本とDVDとCDを返して、合計で15点また借りる。本は文庫本の棚が人文科学まで行く。
 それからいつもなら奪い合いの新聞閲覧コーナーだが、誰もいないので、貸し切りだ。中央紙四紙と、今月の分の束をどっさりと出して椅子と机に向かう。それから新刊コーナーで入ったばかりの本を何冊か読む。いつもの流れで図書館には二時間くらいいる。
 前からだが、仕事を辞めてからは特に頻繁に図書館通いになる。一週間に一度だったのが、いまでは二日おきだ。電車の通勤で読んでいたときは、往復の読書時間は限られていたが、いまではいくらでもある。24時間寝ないで本を読んでいてもいい。音楽CDも気に入ったのはどんどんとmicroCDカードに録音していた。東京、千葉とどこに引っ越してもそれはしていたから、随分とライブラリーも増えた。毎日一枚ずつ録音しても年にアルバムが365枚録音される。ところで、それはいつ聴くのだ?
 午後になると雨足が衰えた。各地で被害が出ている。地球は壊れている。われわれが壊したらしい。テレビのニュースで、去年も水害に遭ったという男性がインタビューされていた。来年もまたあるだろう。これからは毎年あると思わないと。日本も東南アジアと同じ、半年は雨季になったのかもしれない。

浅虫温泉の怪

 青森市の浅虫温泉にわたしは30年前に家を建てて住んだ。海の傍で、温泉街も近いし、二階のベランダからはむつ湾と湯の島が見えた。海の見える海で暮らしたかった。東京から両親を呼び戻して、息子たちと6人の生活が始まった。茨城にいる叔母がよく遊びに来た。おふくろの妹だ。叔母が泊まりにきた夏のこと、うちの裏の家のおやじさんが漁に出て、海で亡くなった。おやじさんはよくうちの草ぼうぼうの庭の除草もしてくれた。一度、家に遊びに行ってみたいと話していたという。その船が転覆した夜は雨風がひどかった。遺体が運び込まれ、通夜が営まれた。親戚が車で駆け付けたので、うちの駐車場を使ってくださいと申し出た。その夜に、中学の長男が風呂に入っていたら、窓ガラスを外から叩く音がして、男の呼ぶ声がしたと、裸で飛び出してきた。その窓は脚立がなければ手も届かないのに。
 何か胸騒ぎのするむし暑い夜であった。叔母はわたしの部屋の向かいの客間で寝ていた。すると,廊下を歩く何者かの衣擦れの音がしていた。誰もいないはずなのに、おかしいと、わたしは夜中に「誰だ」と、ドアを開けて叫んだ。そこには誰もいない。叔母もその音を聞いていて、朝方、眠れなかったという。裏の家のおやじさんが遊びに来ていたのだとみんなと話していた。
 浅虫温泉はとかく幽霊の話がある。浅虫の手前の久栗坂という長い坂がある旧道はの途中にはお地蔵様が三体安置されているところがある。そこで親子三人が交通事故で亡くなった事故現場で、供養のために地蔵が祀られたのは、その後のことだ。それまではタクシーがそこを通るたびに三人を乗せて青森方面に走ったが、後ろの座席を見たら、誰も乗っていなかったということがたびたびあったので、供養の地蔵を祀り、坊さんたち何人も頼んで、そこで地縛霊を供養するための読経が行われる様子がテレビのニュースに出たほどだ。当時は有名な話で、わたしもそこを車でよく夜に通るが、なんとなくバックミラーに映らないかとどきどきしたものだ。
 温泉街の旅館のある部屋にも幽霊が夜ごと出るというので、茨城の叔母の旦那さんは日蓮宗のお寺の住職で、よく祈祷も頼まれて除霊もしていたので頼まれた。叔父のところに依頼が入ったのが浅虫温泉のとあるホテルの一室で、和室の部屋の床の間に飾っている掛け軸には着物姿で立つ美人画があった。泊り客が、夜中に声がするので起きたら、その掛け軸から美人が抜け出て、部屋の枕元に立ったというのだ。そんなことがたびたびあったので、叔父のところに仕事が舞い込んだ。叔父は坊さんでもそういうお祓いもしていた。二日、その部屋に泊りがけ、掛け軸と対峙した。何事も起こらなかったというが、叔父の話では身震いするほどの霊気を感じたというのだ。
 旧水族館の裏山はアスレチックになっていて、子供らの遊び場だった。昔はそこの山の斜面の原っぱで弁当を開いたりして、海を眺めながら家族でピクニックに来たりした。その場所が実は自殺の名所で、松の林であったが、首をくくって死ぬ人が多かった。前の嫁さんが、東北大学の臨海試験場の寮母になり、学生や教授たちの飯支度をしていたとき、雨に濡れた見知らぬ人影が夜に入ってくるのを見た。そんな外部の人間が入れない建物であったのが、その翌日に首くくりの自殺体が裏山で発見されたと聞いた。よくあることだというのだ。
 そいう夏向きの話は温泉街というところにはつきもので、思い出して書いたが、書きながら、何か後ろにいる気配で振り返ったりしていた。何かが動いた。気配で大声を出して後ろを見たら、どこから入ったか大きな蠅が飛んでいる。殺虫スプレーを撒いて殺してやった。