コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

子供のときにどんな映画を見たか

 中学まではよく学校で映画を見せに全員を先生たちが引率して見に行った。いい映画もあったが、これはといま思い返しても首を傾げる娯楽映画もあった。小学生のときは、ディズニーのアニメが多かった。「101匹ワンちゃん大行進」というのも見た。一番最初のディズニー作品は「バンビ」と覚えている。それから「雪の女王」は怖かった。中学になると、記憶にあるのが、「東京オリンピック」の記録映画で、オリンピックが終わった翌年か、公開されて学校で連れて行った。いい映画だった。「ほほにかかる涙」の歌はサンレモで賞をとった歌でそのころ流行ったが、イタリア映画だったか、ボビー・ソロが主演で歌う。青春ものの娯楽映画だが、二本立てで、「バイバイバーディ」も歌あり踊りありのアメリカ映画か。勉強にはならない映画だが、そのどちらも歌がよくて、レコードを買いにゆき、わたしが最初に覚えたイタリア語の歌で、いまでもそれは歌える。
 中学生になると、一人でも映画を見に行った。クラスで仲のよかった友達と二人でもよく見に行った。思えば、当時の映画は安かったのか、子供の小遣いで入れたから、50円とか百円くらいなのだろう。一人で見に行ったのは「アンクルトムの小屋」で、自転車で少し離れた合浦公園近くのスバル座まで夜、見に行った。晩飯を食べた後に、両親に映画を見てくると行って出たが、親父が心配して後で映画館に来た。わたしを探して、隣の席に黙って座って一緒に見た。親父も映画は好きな人だ。
 昨日、図書館で借りてきた懐かしい戦後に公開された「戦場」というベルギー戦線のモノクロ作品だが、それもアカデミー賞の脚本賞を得た作品だが、二度目の公開のときにわたしは一人で見た。そのときも親父がそっと追いかけてきた。懐かしくてDVDを借りてきて見た。56年ぶりに見た映画の画面には思い出すシーンもあった。
 友達と見たのが、中学のときにフィーバーした香港映画のブルース・リーのシリーズ映画で、わたしはカンフーなどあまり好きではなかったので、それでも友達につきあって見たが、そういうアクションものは興奮すらしなかった。
 どういう基準で友達は映画を見たいと誘ったのか、わたしからではなかった。彼が連れて行った中でいまでもすごいなとその迫力に感心するのがヒッチコックの「鳥」だった。鳥が嫌いなわたしにとってはそれはすごい恐怖で、見ていてぞっとさせた。確か、うちからも彼の家からも近い東宝で見た。そこでは森繁の「社長漫遊記」や井伏鱒二の小説からの「駅前シリーズ」など、大人の色気もある映画を子供らがよく見ていた。Hなシーンでは何をしているのか解らなかったろうか。
 ドライサー原作の「アメリカの悲劇」の小説映画化も見たが、あれはなんという邦題であったのか。スタンダールの「赤と黒」やアラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」にもストーリーが似ている青年の野望と犯罪の物語なのだが、犯罪者の心境で見たドキドキする映画であった。
 文芸作品もよく見た。川端康成の「日も月も」など、京都の紅葉の山が背景に日本の美しさを映像で見せつけられた。日活青春映画では、吉永小百合と浜田光夫のコンビで、それも文芸作品であったか。「青い山脈」「伊豆の踊子」などのいくつかの映画があるが、吉永小百合の主演のものだ。日活は後で売れなくなるとロマンポルノに切り替えて18禁にしたが、それまではいい作品ばかり上映した。中でもよかったのが和泉雅子の「非行少女」だった。あれはわたしが小学6年のときに見た。もう一度見たいとヤフオクでビデオが出ていたが、まだ高くて買えないし、ビデオデッキもいまはない。
 親子で見に行った映画は東映の「月光仮面」は、来週に続くと、テレビドラマのように毎週見に行った。チャンバラものでは「新吾十番勝負」の大川橋蔵は恰好よかった。大映だったか、友達と行ったのは、「眠狂四郎」シリーズで市川雷蔵がニヒルでよかった。勝新の「兵隊やくざ」も中学のときに見たが、あれも有馬頼義の文芸作品であったのだ。他に思い出に残るのが「史上最大の作戦」やスティーブ・マックイーンの「大脱走」なんか面白かった。
 思い返せばいろいろと出てきて止まらない。テレビよりもまだ映画が娯楽の中心であったときだ。いまのテレビは堕落してつまらなくなった。それでDVDで昔のいい映画を見たりしている。youtubeでも懐かしい映画が出てくる。あれは違法なのだろうが。年とともに回想することでコロナの退屈を紛らわせている。

通販をしてよかったこと悪かったこと

 いまはリアル店舗が客足が落ちて、どこもここも赤字で大変だ。通販だけは元気で、ネットの売上も伸びている。テレビショッピングもそうだ。ネットがここまで伸びるとは思わなかった。
 わたしも古本屋をやったのが33歳の若いときからで、自分の蔵書を売って稼がないと、本業は傾いて給与も遅れて家族五人が喰うこともできなかったときだ。それもサラリーマンで給与をもらうほどは稼げなかった。女房に店を任せ、パートに出るくらいの稼ぎよりなかったが、自営業は店で子守もできたからいい。
 古本屋もゲームの中古を売るようになってからは格段に売上が伸びて、羽振りのいいときもあった。それが青森市にもブックオフはじめ、ゲオやほんだらけなどの全国チェーンが出店してきてからは、売上はどんと落ちた。仕入れも入ってこない。小さな市内の古本屋は次々に潰れた。そのころから、何か逃げ道はないかと、やり始めたのがネット通販で、1999年のころだ。初めてWivdpws98のデスクトップを買って、店の在庫をデータにすると、ホームページビルダーの出始めのソフトを買って、ホームページを作ると、そこに中古レコードの店と古本屋、絵画も売っていたので、画廊なども開いて、仮想商店街を独自に作った。子供らがそのころ遊んでいたファミコンに、ビートたけしのアイデアで作ったたけしの挑戦状とかいうゲームソフトがあり、それは面白いと、子供らがまだ小学生であったとき、一緒に遊んだ。それは商店街にたけしが入って、いろんなチャレンジをするというもので、スナックに入るとカラオケもあった。そういう商店街を自分でも作ろうと、古本屋で売っている商品をそれぞれの専門店に見立てて、その中に入ると商品が陳列してあり、注文もできるようにした。買い物かごという別のソフトも出てきて、欲しい本などを買い物かごに入れてレジに進める。リピーターを増やすために、まだブログという言葉もなかったときに、毎日更新で古本屋店番日記を連載した。それで固定客を掴もうとした。それがいまだに続いているこのブログで、23年も続いている。
 だけど、客は一日に四五人より来なかった。まだホームページもそのころは全国で3500万ページよりなく、パソコンが普及していなかったので、うちの古本屋を調べたら、一番で出てくる。なんとか客を寄せようと、検索エンジンの会社各社にそのころは手動であったので、どんどんとうちの古本屋の情報を入れた。毎週出ていたパソコン雑誌はすべて買って研究した。どうしたらうちの店が検索してもらえるのかと。そうしたら、ホームページのトップにいろんな検索されやすい文字を貼りこめばいいとあった。それは、ずらずらと載せればおかしいので、隠し文字にした。透明な色の文字で見た人には解らないように、トップページの余白に「中古ゲームソフト、アナログディスク、新刊マンガ本激安」などの文字を入れたら、ホームページへの訪問客が増えてきた。それでも一日に五人くらいの注文ではまだまだだ。
 そんなときに、ビジシークなどのいまのアマゾンと同じ通販会社が出てきて、うちのページを見たので、入ってみませんかと、誘われて、そこにデータを送った。すると、たちまち注文メールが殺到し、五万円もする全集が売れたりした。その会社にいた河野さんが独立してスーパー源氏を立ち上げた。そちらにも入った。そこのシステムはしっかりとしたもので、いままでデータにしていた在庫五千点を一気に入れた。それからは毎日200冊の本をアップするようになり、やがて10万点になるのだが、店が暇で落ち込んで客も来ないとき、潰れるのではないのかと思ったときに救世主がネット通販だった。同じデータを他のサイトにも加盟して、アマゾンもやり、楽天から日本の古本屋にも入る。たまには珍しいものはヤフオクにも出した。ネット通販の他に紙の古書目録も毎月発行して、全国のお客さん1400人に配布して注文をいただいた。店売りは少なかったが、ほとんどが通販の売上で、なんとか経営は維持できた。それをしていなかった古本屋はみんな潰れた。地元の商業仲間の老舗の玩具屋の社長と郵便局に書籍小包をどっさりと出しに行った日曜にばったりと会い、彼は羨み「いいよな、君んとこはそれがあるから。うちは店売りだけだから、玩具屋さんの大手が出てきてからは青息吐息」と項垂れていたが、それからまもなく倒産した。
 手書きの帳簿にいちいち付けて請求書も手書きであったのでが、間に合わなくなり、クイックブックスという販売ソフトを買った。それは在庫と顧客管理も簡単で、請求書納品書見積もりなどがすぐに出てきたし、古書目録の宛名ラベルも印刷できた。さらに楽々財務会計というソフトも15年くらい前から導入したら月次決算もすぐに出た。入出金などの伝票はいらなくなる。
 そうして、通販様様と喜んでいたのは何十年もなかった。どんどんと売上が落ちてくる。その原因は、本が読まれなくなったことで、古本屋もどんどんと潰れてくる。ブックオフも本以外のものを売って逃げる。さらにジモティーやメルカリ、アマゾンでも一般の人たちが自分の本を売るようになり、古本屋には持ち込まなくなる。業者はシロウトさんたちにやられて、セドラーもブックオフに頻繁に出没し、とうとううちの古本屋が倒産したのが三年前だ。30数年やってきたが、時の変化にはついてゆけなかった。通販もいいときもあれば悪いときもある。これからはどうなってゆくのか、いまはお客の視線で眺めている。

弘前の画家工藤甲人は平塚にいた

 平塚市の美術館で、また展示品を替えたので、出かけてみた。図書館の前にあるから、近くて行きやすい。二つの企画展を同時開催している。わたしは65歳以上で平塚市民なので身分証を提示すれば無料なのだ。そこも落ち着く空間で、コロナでなくても普段からそんなに観覧客はいない。三か月とか長期開催なので、いつでも好きなときに見られる。美術館の建物は大きい。蒲鉾型の建物が二つ並べられている。中庭がまたいい。ただ、その日も雨で濡れていて、ガーデンテーブルなどで読書もしてみたいが、それができない。
 二つの企画展とは、ひとつは発達障がいの人たちの作品展だが、「パッパラパラダイス」という大掛かりなもの。平塚市だけではないだろうが、市内にスタジオクーカというアトリエがあり、そこで創作活動をしているようだ。一度前を通ったことがある。わたしの息子たちと同じ年の若者が多いが、みんな特異な才能で平面と立体を描き造る。見ていてすごいなとその色と形の使い方にため息が出る。わたしの知り合いの娘さんも二十歳は過ぎていたが、家にずっといた。生まれつきの障がいを持っているが、彼女の絵を見て驚いた。そっちのほうで才能を伸ばしたらいいのにとお父さんに話したことがある。
 その展覧会を見てから、隣のスペースでは、美術館開館30周年記念の「The gift」というタイトルで、平塚市に寄贈された作品選と新収蔵品展をやられていた。そこには思わぬ絵画が展示されていた。市としては鳥海青児の作品を集めているというが、調べたら平塚市の出身画家なのだ。その外に、わたしの好きな大島哲以や恩地孝四郎、野見山暁治の作品が目立つ。その中で目を引いたのが、田澤茂の作品があったことだ。どうしてこんなところにと思う。青森県は田舎館村出身の津軽の画家なのだ。その略歴を調べたら、7年前に亡くなられたが、ここ湘南で暮らしたようだ。青森の画家がいたということも嬉しい。それより、入口にでんと大作が展示されていたのが、なんと弘前出身の工藤甲人の絵なのだ。「蝶の階段」というアブストラクトの絵なのだが、青森の七戸の鷹山宇一が描いた蝶の幻想的なモチーフとはまた違った画風だ。
 その絵は工藤甲人がどういう経緯か、横浜ゴムの会社が所有していたのを美術館を作るというので寄贈した作品とある。それで初めて、弘前を出てから、東京芸大の教授を退職されて、晩年は平塚市に住んでいたことを知る。ちょうど10年前に95歳で亡くなられたとある。青森では馴染みがあり、展覧会の図録もよくうちの古本屋には入ってきたし、いろんな地元の美術館では作品を見てきた。青森県ゆかりの画家が二人もこの辺りで暮らしていたとは、なんとなく同郷のよしみで嬉しくなる。


 美術館も図書館もまだ閉鎖になってはいない。これからはどうなるか判らないから、いまのうちに見ておきたい。