コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

危うい人生の楽園

人生の楽園というテレビの番組は今は見ないが、定年退職した夫婦が貯金を崩して、第二の人生に挑むという番組で、たいていはパン屋をしたり、民泊をしたり、蕎麦屋をオープンさせたりと、いつもどこかワンパターンで同じなのだ。それでまたかと飽き飽きして見ないのだ。


それより、その人たちはいまは大丈夫なのかと案ずる。夢の実現をしたいと、古民家を買って、改築して店舗にしたり、田舎暮らしに入ったり、趣味が嵩じて老後にそういう店を持ちたいと老後資金を注ぎ込んで自分の城を持ったのはいいが、このコロナであてが外れ、赤字で借金まみれ、二進も三進もゆかなくなり、人生の楽園が人生の地獄になっているのではないのか。どこもここもだから。


コロナでなくても、それ以前から、起業家の半分以上が三年以内に閉店したり倒産したりしていることも知らなければならない。どれほど起業するということが難しいことか。バラ色の未来なんかではない。その中で自殺に追い込まれている人も実に多いという現実もある。簡単なものではないのだ。


わたしのように、完全リタイヤして、もうこれから何をするかにをするということは考えないで、好きに自由に暮らしたいと思っている老人もいると思えば、そうした第二の人生と、老後にもうひと花咲かせようと、夢に向かって進む人もいる。それは羨ましいとは思わないが、大丈夫かと危惧するだけだ。


わたしは若いときから独立心が強く、自分で古本屋だけでなく、軽印刷の店やギャラリーも経営して、五店を切り盛りして、いいときもあったが、借金を作って縮小した。商売はいいときもあれば悪いときもあり、山あり谷ありで、羽振りのいいときは、サラリーマンなんかバカらしくてしていられないと、札を財布に詰めて、夜の街を呑み歩いたときもあった。ボトルをキープしている店が10店くらいあり、三日に一度は呑みに行っていた。いまから思えば、金を手にすると人間の奢りで、次に備えて内部留保すべきであった。


さんざんやってきて、老後ぐらい静かにしたいと、仕事は辞めて、いまは年金生活に入る。


前に、親父の葬式のときに知り合いの先生が来ていて、その席でわたしに一緒に事業を起さないかと言ってきたことがあった。その先生は少し山師のケがあり、危ない人だとは思っていた。いつもどこかで一攫千金を狙っている。そういう人とは手を結ぶのは危険だった。それと、わたしも60歳で、先生は70歳くらいであったろうか。


「先生、まだそんな元気があるんですか。もうやめましょうよ。先生の年なら、孫の相手をして、盆栽をいじくり、仏様の金具でも磨いていたらいいんです」と、冗談混じりに言った。まだ仕事をしようとしている。人間、何があるか判らないから、いまのうちに旅行をしたり遊んだらいいのに。そう思っていたら、その翌年に、先生は脳溢血で倒れて、半身不随で寝た切りになられた。その後はどうなったか知らない。


コロナで人生計画が狂った人もいるだろう。何がこの先起こるか判らない。自営業の不安定な収入はわたしも30年ぐらいしてきたからよく解る。客がゼロの日もある。古本屋を倒産させて、いまはサラリーマンをしている息子はどうしているだろうか。きちんと決まった給与がもらえるサラリーマンのほうがいいと彼は思っているだろう。なんの補償もない店に立って、毎日一喜一憂していたときも、懐かしいが、家賃や光熱費、子供らの給食費も滞納したりして、綱渡りの日々はもうたくさんだ。

速読の癖が直らない

わたしは活字中毒ではなかった。読書は普通の学生ぐらいであったろうか。大学生のときの本棚はひとつだけであったので、おそらく300冊も蔵書はなかった。それが四年間で読んだ本なのだ。一年に百冊も読まない。五日に一冊ぐらいか。それが、青森に戻り、親父の仕事を手伝うようになり、赤字で追い込まれて、なんとか倒産させまいと、札幌進出して、北海道開拓に行った30歳のときであった。仕事はうまくゆかなかった。何をさせても甘く、手ぬるいから、失敗ばかり、店を出しては閉めてと、逆に本社の足を引っ張るようになり、社長である親父とよく電話で喧嘩をした。


そんな精神的にも詰まって懊悩していたとき、出口を求めて配達途中の札幌の古本屋にふらりと入ったのが昭和58年の春だった。雪解けの時期で、路肩には残雪がまだあった。そんなときに三男が札幌の琴似の病院で生まれた。それからが不思議だった。まるで答えを探すように、いまの自分に欠けているものはなんだと、何が間違っていたのかと、本に回答を求めるように安い店頭のゾッキ本ばかり買いまくる。100円で五冊の文庫本が多かった。社員の給与も遅配されているとき、支店長のわたしは三か月も給与は出なかった。三人の子を抱え、親子五人が食えない羽目になる。女房は結婚指輪を質に入れようと言い、わたしはビデオカメラをリサイクルセンターに売りにゆく。毎日が素うどんばかり。お菓子のクズだけはいっぱい下の工場から出たので、子供らのおやつにしていた。


なんとか打開しなければと、必死で本を読む。誰にも聞けないことを本は教えてくれるかもしれない。学生時代に真面目に勉強していれば、こんな失敗はなかったかもしれないと悔やんでもし方がない。


朝9時前から下の洋菓子店の店に立ち、工場を手伝い、夜9時の閉店まで休まず仕事をしていた。それでも配達の車の中で本を読んだりしていた。信号で停まると本を開いた。店に立っても、仕事に関するビジネス書ならと、お客の来ない暇な時間に読んでいた。朝起きてからも何冊か、トイレで一冊、夜寝るときも何冊か読んで、一日10冊は読んだ。一度、どれぐらい読めるのだろうかと、朝は6時から夜寝るまでの12時まで、久々の休みの日に挑戦してみた。30冊ぐらい読めた。自分は無意識のうちに速読になってしまっていた。それは一種の強迫観念みたいな病気に近いものがあったろう。とにかく、読まなければと、次々に本を手にする。女房は初めは、こんなに本を買ってと、子供らに小遣いもやれないのに、あなたは自分の本ばかり買ってと文句ばかり言ったが、それもやがて諦める。青森に会議があって帰ったら、自宅の本棚から別宅の倉庫に仕舞っていた親父の蔵書から本を選んで、札幌に送らせた。苫小牧の姉の旦那が亡くなったときは、おいおいと泣きながら、義兄の本棚から本を箱に入れて車で札幌にせっせと運んだ。義兄は生前にわたしに本はみんな持ってゆけと言っていたのを遺言のように思った。それで札幌の社宅は本でいっぱいになる。女房は初めは、何冊あるのかと数えていたのが、もう数えるのがアホらしくなり、廊下から階段へと本が占拠してゆく。三年後、青森に引き上げるときに、引っ越し荷物でりんごのダンボール箱に100箱くらいあったろうか。


それらが元になり、わたしは古本屋をやるようになる。洋菓子店が倒産し、わたしら親子が破産した後も、それでなんとか食べてこられた。古本だけは差し押さえ対象外で、資産価値はゼロとみなされた。元々古本屋の店頭から買った安い本ばかりだった。


それからも読書は続く。古本屋の帳場にいると、どんどんと本を売りにくる。引き取りの電話も来る。本気違いのわたしにはうってつけの商売だった。店に仕入れた本を出す前に、自分で読みたい本は後ろの棚に入れた。それをお客が見て、「ご主人、あの本はいつ読み終わりますか」と、欲しがるのだ。それではいけないと、それからは読みたい本は図書館に行って借りるようになる。それならゆっくりと焦らないで読める。お客にせかせられて読むからますます速読になる。斜め読みで、スキミングという上辺だけ掬い取るように読むコツが自然と身についた。精読もしなければと、いま、その悪い癖を直そうと思うのだが、長年の悪癖はなかなかとれない。いまだに、図書館には三日に一度行っていて、一日三冊のペースだが、年とともに読むスピードは落ちたが、それでもじっくりということがない。これは病気なのだと自分でも思う。老後だから何も出口を探さなくてもと、自分に言い聞かせるのだが、いまは死ぬの生きるのという本を読んで、そろそろいつ死んでもいいようなお迎えの本を読んだりしている。それがいまの自分の課題図書なのだ。

マスクでわかる顔の不思議

マスクをしている女性はみんな美人に見えるのは何故か。それはずっと去年から気になっていた。マスクがなければそんなに気にはならなかった。どきりとする美人ばかりなのは、マスクをするということが何か原因にありそうだ。


いろいろと考えたら、いまは化粧法がよくなり、みんなそれなりに綺麗にはなってきたが、特に、化粧でどうにでもなるのが、眉毛と目だろう。それはいくらでもごまかしがきく。眉毛なんか剃って描けばいい。どうにでもなる。目元もアイラインやアイシャドーなどでぱっちり目にも強調できる。つけまつげなんかいまはあるのか。二重の美容整形も電車広告を見たら安くできそうだ。


鼻と口はそうはゆかない。整形手術をすれば変われるのだろうが。わたしも鼻は母親似で高くなく、鼻穴も大きい。見ている人から、怖い、吸い込まれそうになるとまでは言われないが、若いときはゴリラというあだ名ももらっていた。親父は鼻は高くいい形をしていたのが、子供で唯一妹だけが遺伝した。鼻の恨みを話したら、いまでもおふくろは嫌な顔をする。


そのどうにもならない鼻とタラコ唇などの唇をマスクで隠すから、目と眉で勝負はできる。いまはどうか、お見合いの席もマスクはしているのだろうか。それで決めて結婚したら、マスクを取った素顔を初めて見て、これは詐欺だと騒ぐのだろうか。


それと、マスクの下はどんな顔なのかと、想像力を働かせる。想像が一番、人を美しくさせる。きっとすごい美人なのだろうなと、あれこれとマスクをとった顔を思うことがより相手を美しく錯覚させる。夜目遠目傘の内だ。


マスクがなくても最近はみんな綺麗になってきた。わたしが若いときとは全然違う。たまにテレビで昔のアイドルの映像と現在のおばさんになった彼女たちと比較してみたら、おばさんになった元アイドルのほうがずっと綺麗に見える。それは化粧法も変わり、髪型から美容法、形成術も進んで、洗練されてきて、着る服のファッションなんかもあるのだろう。若いときのほうが可愛いはずなのに、どうもイモくさいと思うのはわたしだけだろうか。成熟してきたら、若いときよりいいと思う人が多い。


わたしの田舎では昔は頬が赤い娘はいくらでもいた。りんごの産地なので、りんごのように赤い。わざわざ頬紅を塗らなくても、毛細血管が浮き出ていたのは寒さもあるのだろうか。いまどき、そういう女の子は田舎でも見ることがない。住環境も変わり、寒い生活ではなくなり、真冬の厳寒もいまは快適に過ごせる。わたしの子供のときは、自分の部屋はストーブがあっても寒かった。エアコンなんかなかったし、石油ストーブではなかった。居間ではコークスをくべていた。窓も一枚で、いまのような雪国のペアガラスで外気を遮蔽するサッシではなかった。木枠で建付けが悪いと隙間から雪が入り込む。窓ガラスには朝に花模様の氷が結晶した。学校も寒かった。一番奥の席だから、オーバーを着こんで授業していた。手には先を切った手袋をして、鉛筆を持っていた。外に出たら耳が冷たくならないように毛のついた耳あてをしていた。いまはそういう子供らは田舎でも見ない。


ファッション情報もネットなどでいまはどんな田舎でもあたりまえに普及して、原宿で流行ったものはすぐに田舎でもネット通販で買える。田舎っぺと悪口で言われる娘はいまは見当たらない。都心でルーズソックスが流行ったときは、どんな田舎の女子生徒もそれを穿いていた。流行が全国均一化されて、早くなると、着ている服もみな同じ。素朴な昔の女の子はどこかにいないかなと、いまはそっちのほうが貴重な存在になる。


それをわざと売りにしているお笑い芸人もいる。最近は年なのか、そういう純朴な感じの人にいいなあと目がゆく。周囲が美人ばかりではつまらない。画一的で、みんな同じように見える。マスクをしていたら余計そうで、知り合いの娘によく似ていると、じろじろと見たりして相手が怪訝そうな顔をする。その娘も30歳少しなのだが、結構いまどきの子なので、どこにでもある顔になり、似ている人ばかりが通るので間違えるのだ。その知り合いも、先日は駅のホームでばったりと逢って、ああ、久しぶりと声を掛けたら、変な顔をされた。人違いだった。マスクで目と眉だけでは間違いも発生する。全国的にいまはそういうことは起こりうる。


だけど、面白いのは。顔の全部を出しても目だけ隠せば誰だか判らなくなることだ。目は人の顔で一番ものを言う。個人を特定させないために目だけに線を引く。顔というのは実に不思議なパーツでできている。