最後の福島通信1

キムヒロ

  福島からわたし宛てに最後の手紙が来た。出所まで秒読みに入る。が、それを本人にも話してはいけないと、先日、うちに通告に来た保護司さんが釘を刺して言った。その日にちが漏れると仮釈放が取り消されると。受け入れの家族だけが知って、本人はぎりぎりまで知らされない。それは塀の中で妬みがあったり争いもあるからだと。受刑者が出てくると被害者の復讐もあるだろう。だから、出てくる日は内密なのだ。手紙の内容は少し変えている。原文通りではないのは、その都合による。手紙をスマホに入れたOCRアプリで写真を撮り。テキストに変換。それを手直しした。


  ……帰れないのはダメになったからか? なんて想像もしてしまっていたので…。10月末には出れるかな?とは思いますが、11月の1週目になるかも…とも考えたりします…。マンションの件、了解しました。私もブラックになっているので賃貸は借りれないかもしれないですね。とりあえず、ここから出る時に在所証明書などは発行してもらって、市営住宅とかに申し込んだ方がいいのかもしれませんね。住むところがないのは事実なので…。ワンボックスカーの事故の件ビックリです。保険きれてたら乗らないから言ってほしいですよね。そういうところ、本当勘ベンしてほしい。私を迎えにくる時は保険かかってる状態なのでしょうか…。心配しすぎます。運動会は10月末ですか? 行けるかな?? 3人で応援に行きましょうと言っていただいて、嬉しくて涙が出ました。なんとか間に合うか…。10/31なら…。

 仕事の件、了解です。単純作業で1日一万円くれるところとか探しますね。年内はそんな感じで働きます。年内に在宅の仕事を探して決まったらと考えています。いい年を迎えられるようにしたいです。私のソボクなギモンなのですが、パパの給料と児童扶養手当を合わせると月の収入はいくらになるんでしょうか? そもそもそこから支出を色々してほとんど残ってないという事なのでしょうか? 少しくらいは貯金してるのかと思っていたのですが、そうでもないって事なんでしょうか……。うーん…。私もですが、パパも堅実な金銭感覚を養う必要がありそうな気がしてなりません。

 Kちゃんがテスト100点5回とってきたってすごい! お姉ちゃんのときは100点をとってきたら100円おこづかい制度ありました。お姉ちゃんは100点以外見たことなかったですが。お姉ちゃんの文化祭に行かれたんですね! お姉ちゃんから手紙をもらった時に、実行委になったので、来てほしかったと書いてあって、号泣しました。行きたかったです、本当。高校創立100周年ですか? ということはお姉ちゃんは99回生って事ですかね?  お姉ちゃん、ちょっとはやせたんですかね?

 Iちゃはバイト生活ですか。帰ってから、パパと話し合いします。本当はきちんと高校は中退しないで卒業してほしいのですが…。私が帰ってきたら家に戻ってくるのでしょうか…。私を迎えに来る時に、Iちゃんも一緒に来てくれればなぁとも考えたりしますが…。

 帰る日はどうやら朝の結構早い時間に出れるらしいようです。なので4時間半かかるとなると暗いうちに家を出ないとダメかと思われます。事故なく来てくれればそれだけで大丈夫です。私のせいで長男さんとの関係もこじれ気味となってしまった様で本当に申し訳ないです。これからの生活を安定させていく事で、少しずつ信頼を取り戻していかなければならないです。本の件は了解しました。送っていただいた本のおかけで連休中も暇を持てあますことなく過ごしました。心理学の本を読んで、色々と思うところがありました。これは持って帰ろうかと思います。保険証の件も了解です。現在も社保が生きているのであれば大丈夫です。

 子供たち食べたいもの、ありがとうございます。何がいいですかね。レシピ本を借りては、ノートに写していました。みんなが食べるものがいいかと思うので、ハンバーグとかの方がいいでしょうか。

 ここまで出所が延びてるのは私自身の問題というより被害者感情の問題なんだろうと思います。家族が一番待ってて辛いだろうねと声を掛けてくれた人がいました。その時、聞いた時、泣きそうになってしまいました。本当にそうだなあと…。福島に来て職員さんに一番初めに言われた「待ってくれている家族のために頑張りなさい」と言われたのを思い出しました。どれだけ作業を頑張っても帰れない、こんなにやってもバージを上がんない、しまいには足引っぱられるという事態でメンタルボロボロですが、分かってくれている人はいるのでなんとかなっています。

 Kちゃんとどんな再会ができるかなあと考えてましたが、学校から帰ってきたら、おかえりと言ってあげたいと思ってました。福島からどれだけ早く出れるかによって、そこに間に合うかどうかというところでしょうかね。

 軽作業のバイトで一つ思ったのですが、農作業のバイトとかは湘南でありませんかね? 野菜などの出荷のバイトとかに興味がありまして…。運転しなくてもいいけるところであれば助かるのですが。帰ったらまず美容院に行って、履歴書用の写真を撮ろうと思います。あとは簿記とFPの試験を受けに行きます。合格して、それを使う仕事ができたら…と。あとはオンライン診療とかの仕事もあればなあとは思います。「健康管理士」の資格を取りたいので勉強したいと思います。Kちゃんと週に1回は色々とお出掛けしたいと思います。学校から帰ってきたら、手作りおやつを食べさせたいです。おやつのレシピもかなり集めました。ドーナツとか作りたいです。アップルパイとかを作りたいです。

せめてマンガ本でも読んでくれたら

キムヒロ

  週刊誌も読まれなくなり、発行部数は落ちた。新聞もそうで、みんな薄くなり、広告を除いたら読むところは昔よりかなり少ない。マンガ雑誌も読まれなくなったと先日のニュースでやっていたが、小学生の28%がマンガ本ですら一冊も読まないとか、そういう記事も最近は出ていた。不読率という初めて聞く言葉。考えてみたら、マンガ本なんか動きがない。吹き出しの文字を読まないといけないのは小説などと同じだ。読むという行為が次第にしなくなったのは、テレビやネットの映像文化からだろうか。平面の紙という媒体では音楽も色もないときもある。モノクロの単調な電子音は淋しい世界は昔のファミコンゲームをしているときと同じだ。それがリアルになり3Dになり、迫力と臨場感いっぱいで、とても同じマンガの原作を見ていてもそれは伝わらないものだ。そこに何か欠けるとしたら想像力だろう。本を読む人は活字を読みながら、場面を映画のように脳裏に描いている。受動的な画面ばかり見ている子供らは、次第に自分で描くということをしなくなる。受けるだけの世界だ。そこには自分の入り込む余地もなければ、読みの深さや心で描く広い世界がない。

 わたしらもそうだが、マンガ世代という。テレビ世代でもあるが、わたしが初めてテレビを見たのは幼稚園のときで、あれは昭和32年であったか。わが家に初めて白黒テレビが来たときだ。それまではラジオが部屋にあり、それを家族が聴いていた。連続ドラマもそうで、『君の名は』は大ヒットして、それが放送された時間は銭湯は空なったという話があったくらいだ。テレビよりはまだラジオのほうが想像力を働かせられる。声だけだから、場面は頭の中に描く。テレビが出回ると。ジャーナリストの大宅壮一は「一億総白痴になる」と、名言を吐いた。もし、いま大宅壮一が生きていたら、スマホばかりずらりと電車内で見ている大人たちを見てどう言うか。すでに白痴になったかと思うかもしれない。

 子供らの学力も落ちる。本どころかマンガ本すら読まなくなった。日本では週刊誌の雑誌やマンガ本は読書としてカウントしていないが、海外ではマンガ本も本としてカウントしているから、統計では日本と海外では違うが、世界でもマンガ本は次第に読まれなくなったので、せめてマンガでもいいから読んでもらいたいと、嘆いているそうだ。

 だいぶ前から、読書離れが起きて、大学生でも平気でジャンプなどの雑誌を堂々と電車で見ているいうのは普通であったが、われわれが学生のころは恥ずかしい気持ちはまだあった。仲間たちは朝日ジャーナルなどの週刊詩を読んでいて、文芸月刊雑誌なども読んでいた。マンガ本なんか高校生のときに卒業したと思っていた。それがそうではなく、いいものは密かに読まれていた。先に亡くなったつげ義春などは大学生が読んでいた。ガロとかCOMとかは大学生のマンガ雑誌で、サラリーマンも電車で手にしていたのはアクションとかビッグコミックといった青年向けのマンガ雑誌だった。わたしの愛読書は永島慎二で、『漫画家残酷物語』や『フーテン』『若者たち』などが大学時代からの宝物として持っていた。それはマンガの純文学のようだった。わたしだけでなく、どうしてもマンガ世代はそこから卒業できなかった。そのときから活字離れとか、読書離れと言われるようになり、いまや大学生の6割が一冊も本を読まないという驚きの結果が出た。そういう彼らのために、これではいけないと、マンガ版の専門書が次々に出てきた。マンガで読む資本論とか、心理学、資格取得のテキストでもマンガで宅建とか、聖書もマンガ、歴史もマンガ、それを読めば難しい勉強の本でもなく、一応知識は身につく。一時期はそうしたマンガで読む源氏物語とか古典シリーズも出たし、どうしても活字アレルギーの若者のために出版社もこれならどうだと出してきた。わたしもちらりと読んだが、分かりやすい解説だ。

 小学生向けにも日本の歴史全巻もあった。マンガ版横山光輝の三国志は全60巻でうちの古本屋でもよく売れた。歴史書は読まなくても、せめてそういうマンガでも読んでくれたらと、いまは学校の先生たちも思っている。それすらも読まれなくなり、ネットのYouTubeでは、動画で歴史を繙いたり、哲学をAIで分かりやすく見せたりしている。それでもいいかと思うが、どうなのだろうか。

 マンガの魅力はなんといっても原作と絵だ。わたしも本は読むが、並行して古本屋時代でも仕入れで入ってきたマンガ本は読んでいたのがある。ゴルゴ13シリーズは面白いので全部読んだか。百巻を越えたマンガ本もあまりない。課長島耕作も面白かったが、同じマンガ家の弘兼憲史の『人間交差点』が好きですべて読んだ。あれはマンガの短編傑作全集みたいなもので、よくストーリーが作られていて感心して読んだ。

 マンガ本も感動を与えるのは小説と同じだ。それがテレビに取られ、ネットに取られ、みんなが受動人間ばかりになったらどうなるのだろうか。人間の性質も変わってゆくのかもしれない。それは昔とは異質な軽佻浮薄な一段下がった人間になりはしまいか。政治はそのほうがいい。愚民政策で、国民はある程度莫迦なほうが操作しやすいと、教育改革もそれに合わせて世の中は頭のいい悪人ばかりが愚かな善人をいいように使う。気が付いたらわれわれはネットの奴隷にされている。怖い話はこれからだ。

枯葉の街

キムヒロ

 最近になって何かの歌が口に出る。そのメロディだけハミングしている。歌詞は忘れた。誰の歌だろうか。孫も、じじはいつも歌っているけど、それってどんな歌? と聞く。何か悲し気なメロディだ。最近の歌ではない。気になるのでスマホのグーグルさんに聞いてみた。どうしたら教えてくれるのかと、ネットで調べたら、グーグル検索の窓口にあるマイクでハミングする。そしてそれを歌というところをタップすれば、認識してその曲や歌を即座に出してくる。出た。「枯葉の街」由紀さおりと出た。いつの歌なのかと調べたら、1969年のヒットというから、あれはわたしが高校三年生の17歳のときの歌なのだ。青森の坊主刈りの高校生で大学受験勉強のさなかだ。すっかりと忘れていて、由紀さおりは知っているが、その歌が流行ったことは思い出せないし、題名もそうなのかと思うだけ。わたしがその歌が好きだとか由紀さおりのファンであったということもない。どうしてか、頭から離れず、その歌のメロディだけが突然湧いてきたように毎日わたしの口から出るのだ。


 山上路人作詞、いずみたく作曲の失恋した女の悲しい歌だ。


 あの日からあてもなく さまようことが

 私の悲しい 慰めなのよ

 夜明けの海辺 風に吹かれて

 あなたの影を もとめてゆくの

 あの時に めぐり逢う ことがなければ

 哀しみ知らない 女でいたの


 そうか、そうだったかと、ようやく歌を思い出すが、その歌はカラオケでも歌ったこともないし、第一、いま75歳の後期高齢者が、そんな女々しい歌をうたうはずがない。だのに、頭について離れない。季節は確かにいまに合っている。枯葉ばかりで、今朝も近くのクリニックの敷地の枯葉を掃除しながら歌っていた。いまのわたしの気分でもない。別れた女を追い求める男というか老人の姿は歌にもならない。もう女や恋愛から無縁になると、そういう小説も読みたくないし、歌なんか歌うのも気持ちが悪い。そうなのだが、どうしてかこびりついた歌がいつまでも離れない。どうしたのだ。病院に行かないといけないのか。先生、すみません、歌が頭から離れないので切除してくれませんか。

 高校三年生のときは、片思いの人はいたが、それは札幌の人で、しかも年が四つ下なので、当時は中学三年生の女の子だ。高校二年の夏休みに北海道にサイクリングに行って、親父の札幌の友達の家に泊めてもらった。そこの長女がピアノを弾いてくれた。それからクラシック音楽を聴くようになり、夏の思い出のサイクリングがそのまま女の子と重なる。だけど、その歌とはどうもイメージが違う。片や年上の女性が別れた恋人を慕う。片や坊主刈りの高校生が中学生に片思い。それは違うだろう。

 それにしても60年近くして、どうして突然歌が憶えもない海馬から湧いてきたものか。由紀さおりというと、当時の受験生たちは、深夜放送をラジオで聴きながら勉強していた。おかあさんといっしょのNHK番組の歌のお姉さんだった由紀さおりがまだブレークする前に名前も知らないで、その♪ルールルルルーというスキャットだけがラジオ放送の番組に流れて、それは何という歌で誰が歌っているのと、放送局に問い合わせが殺到した。それからこれはいけるかと、後に「夜明けのスキャット」という歌にしたら大ヒット。一躍由紀さおりが歌謡界の表舞台に登場する。それがその高校三年生のときだった。わたしもそのスキャットはよく聞いた。当時の受験生が徹夜して勉強していた夜明けにぴったりな曲であった。

 いまはYouTubeでもネットで検索すれば、昔の懐かしい歌がすぐに出てくるいい時代になった。それで思い出したが、わたしが都心の小石川で一人暮らしていた出稼ぎ時代だから、2014年だが、そのころは古本屋の仕事を四畳半でしながら、近くの文京区真砂中央図書館にいつも新刊と音楽CDを借りに通っていた。図書館は他に水道端と湯島、小石川、本郷、本駒込、千石図書館などもわざわざ自転車で借りに行っていた。貸出カードで文京区にある10館の図書館は使える。真砂図書館でいつもCDを借りては部屋で録音していた。パソコンに取り入れて、音楽ライブラリーのフォルダにアルバムをいっぱい入れて、3000枚分くらい入っていたか。

 その日もクラシックの棚を見ていたら、若い女性から声を掛けられた。「すみません、クラシックが好きなんですか? わたしが聴きたい曲が題名が分からないので、教えていただけませんか?」と、その人はわたしの耳元でメロディをハミングした。聴いたらすぐに判る名曲だった。「ああ、それはサン=サーンスの動物の謝肉祭の中の白鳥ですよ。チェロの名曲です。ぼくは若いときチェロを習っていて、それをよく弾いたもの」と、余計なことも喋る。女性は長く探していた曲が判明して顔が明るくなる。それがあるか棚を探してあげたが見つからない。チェロ小品集のCDには必ず入っているかと探してあげたが見つからない。

 それと似た思い出が、いまは苫小牧にいる上の姉が青森から嫁いだときに、青函連絡船で津軽海峡を渡って、結婚式に親戚一同とわたしも参列した。そのときにラジオで聴いた曲が耳から離れないで、17歳のわたしの頭はその曲が秋の北海道に渡ったときのBGMになっていた。どうしても気になって、帰ってから町内のレコード屋に行って、「こんな曲は知りませんか」とハミングしたら、店主とお客が、それは「シェルブールの雨傘ですよ」と、映画のサントラのレコードを視聴させてくれた。「これです!」と、わたしはすぐにそのシングルレコードを買い求めた。長く頭の中で鳴っていた曲が見つかったときは、まるで病根が見つかり快癒したときのようだ。


 いまなら、グーグルで一発で探せる。昔はそうして人に聞いて探してもらうよりなかった。歌も曲も60年してもいまだにどこかに残り続けている。音楽というものはいいものだ。記憶の深いところでいつも聴こえている。