コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

消えた夏のアイテム

夏になると思い出すのが、蚊帳だが、あれはいまは必要がなく、売っていないだろう。昔は蚊帳専門店もあった。いまは映画館だけしかないが、青森の古川はシネマデイクトさんが奈良屋という名前の映画館であったときに、その隣で蚊帳を売っていた。いまのように、家には網戸というものがなかった。それよりアルミサッシではなかったので、隙間があり、いくらでも虫は入ってきていたし、建物自体が密閉されていなかったので、蠅でも蚊でも外と同じように自由に入り込んでいた。それで、寝間に蚊帳を吊る。部屋の四隅の天井に、蚊帳を吊るフックがあり、それに掛けるのだが、夜に蚊帳を吊ると、子供らはまるでキャンプでテントを張ったように喜んで、その中に潜り込んだ。


卓袱台にも食べ物のための小さな蚊帳がかぶせてあった。それは蠅がおかずにたからないようにするためで、まだ仕事から戻らない家族のために晩御飯は用意されていた。


あれはどこにいったのかと、思い出したのが、蠅叩きだ。いまもどこかで売っているのだろうか。使っている店も最近は見たことがない。蠅も昔ほど多くなくなった。それほど、街やわれわれの生活も清潔になってきたのだろう。というものの、いま、わたしの部屋にはコバエなのか小さな羽虫がうるさい。どこから入ってくるのか。網戸に隙間があるのか。それとも玄関から入ったときに、よくマンションで不法侵入する手口の共連れで、わたしの背中にくっついて入ってくるのか。それでも小さな蠅の赤ちゃんだ。それはたまに殺虫スプレーで退治はしている。そういうふうなスプレーも各家庭にはあるし、玄関や窓には、虫が近寄らない防虫剤を吊ったりしている。いまは市街にはドブがない。みんな暗渠にしてしまい、生ごみもその辺に捨てたりしないし、衛生管理がなされているので、蠅も蚊も少なくなったのではないのか。


蠅叩きは食品を扱う店ではよく使っていた。だけど、果実についたらバシッと叩けば、売り物だから買うほうは気持ちが悪い。それでよく、天井から蠅取り紙を吊るしていた。それに蠅がいっぱいついていて、不気味だった。食べ物がそのために美味しそうには見えない。いつからか、それもなくなる。ロール状になって引き出すと、ガムテープみたいになっていて、ベタベタとしていて蠅がくっついたら離れられない。


紫外線のような防虫用蛍光管もあった。それはいまも食堂の厨房などで使われている。受け皿に感電した虫の死骸がいっぱいある。


海に泳ぎにゆくと、こんがりと焼きたいと、若いときは、サンオイルというものがあった。それをビーチで塗り合った。コーラ焼きというのもあって、コーラを体に塗って日焼けするといい色で焼けるのだとか。本当かどうか、みんなやっていた。いまは逆に美肌で日焼け厳禁、日焼け止めをみんな塗っている。


今日は、驚いたのが、海まで歩いたら、途中の道で日傘をしている若い男性を見た。男の日傘もあるとは聞いていたが、何か違和感。いまはそういう時代なので、別にどうでもいいが、男もこんがりとは焼かなくなったのか。わたしは真っ黒に毎年焼きたいと、ウエルダンよりも焦がすくらいに黒くしたい。


ビーチではくろんぼ大会というコンテストもあった。青森でも海水浴場でやっていた。くろんぼというのはいまは差別用語で使えないというが、色の黒いのを自慢する大会なのだ。一番黒い人には賞品が出た。子供たちも、毎日のように海水浴場に行っていた。わたしも小学生のときは、自転車で合浦公園という市内の海水浴場によく通った。


子供だけでなく、大人も真夏はランニングシャツを着ていた。いまはそういう姿は見かけない。ノースリーブはあるが、白いランニングシャツで歩いている人は見たことがない。Tシャツばかりだ。わたしも一枚も持ってはいないが、若いときはそればかりだった。どうしてか下着売り場でもいまは売っていると思うが、目につかない。


夏の少年というとランニングシャツに麦藁帽子、虫取り網を手にしているのが定番だった。


下駄に草履というのもだんだんとなくなる。夏の宵は涼みに通りを歩く人たちの下駄の音がよく聴こえていた。窓を開けているから、外の音が家の中のようによく聞こえた。下駄もなくなったのは、浴衣で出かける人が減ったからだろう。そういえば、わたしも浴衣を若い時に持っていたが、いつからかなくなっていた。下駄もどこに行ったのだろうか。引越しのたびに処分してきたからだろう。いまは浴衣を着るときは温泉に泊ったときぐらいだ。そこには下駄も草履も置いてある。


今年は花火大会もまた中止だろう。縁日もなくなり、なんだか夏はどこかに行ったかのようだ。夏かしいと思い出すことばかり。

×

非ログインユーザーとして返信する