コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

わが家の戦争

毎年のように8月15日になるとテレビでも新聞でも戦争の特集になる。何十年前になったろうかと、計算はしやすい。わたしの年に6つ足せば、それが終戦の昭和20年で覚えやすい。わたしは戦後生まれで、戦争を知らない子供たちだ。それでもわが家には戦争の臭いはしていた。それは仏壇に飾ってあった沖縄で戦死した叔父の軍服姿の遺影だった。いつもそれを子供のときから見て育つ。わたしの寝床は仏壇の前で、中学になるまで、仏壇の前で祖父と寝ていた。じいさん子であったから、中学生になってもじいさんの隣で寝ていた。じいさんが一人で下の仏間で寝ているのは淋しいだろうなと、一緒に寝ていた。高校の受験勉強で遅くまで二階の子供部屋にいたら、祖父は、まだ寝ないのかと迎えにきたものだ。


叔父の遺影は俳優の篠田三郎そっくりで、美男子であった。許嫁がいたようだが、戦争には行きたくないとぽつりと本音をおふくろに話して出征していった。祖母はいつか帰還するだろうと、戦後もずっと待っていた。戻ってきたら着せてやろうと、大島の浴衣も仕舞っていた。親父は昭和23年の夏に、電報を舞鶴から送って、シベリア抑留から突然に帰還した。そんなこともあるかと、ずっと家族は叔父を待ち続けてきたのだが、昭和27年になって、政府から戦死報告が送られてきた。中国戦線にいたとばかり思っていたのに、沖縄で戦死したと、その日付が昭和20年5月1日とだけ書かれていた。誰かそれを見た人はいるのか。部隊が玉砕した日というのだろうか。死んだとも何も解らず、遺骨も何もない戦死報告で、戦後、わが家に仏様が出たというので、青森の三内の霊園に墓を建てた。それまでは八戸に菩提寺があった。


浴衣は用がなくなったと、後に大事にとってあったのが、わたしに巡ってきた。一度だけ袖を通したろうか。しばらくはタンスに仕舞いこんでいたが、それは古本屋から東京に出てきたときに呉服屋の親戚に上げた。


9年前だったか、初めて沖縄を訪ねたとき、わたしは那覇でレンタルサイクルを借りて、ひめわりの塔など、一周したが、そのとき、叔父のことを思い出して、平和祈念公園で、戦没者の礎に叔父の名前を見つけた。そのときは、園内にある検索のコンピュータで出身地の青森県と名前を入れたら、機械からその名前の場所が印刷して出てきた。それを手に広大な石碑が並ぶ中から、青森県のところで叔父の名前を見つけた。そこでケータイで写真を撮ると、従兄弟や姉妹にメール添付で画像を送った。前に親父たちもここに来ていたが、弟の名前を見つけられずに迷っていた。いまはいいものができて、位置が印刷されて探しやすくなった。


戦死した伯父は後二人いる。おふくろの兄が二人、一人は中国戦線で、もう一人はニューギニアで死んだ。それは生き残って復員した仲間の兵隊で、同郷の人が教えてくれた。数十人だけが奇跡的に帰ってきたが、大半は戦闘で戦死したのではなく、飢えと病気で死んだという。病死した伯父の遺体はジャングルの川の側に埋めてきたという。ニューギニアに墓参のツアーがそれからは何回か行われ、青森の知り合いも、それに参加したというが、ジャングルの中には入れず、飛行機でその上空を飛んで、空から供養したという。


4年前に、わたしはボルネオに旅した。ニューギニアからは離れているが、オラウータンが生息するジャングルが公園になっていて、そこを二人で歩いたが、椰子ばかりのジャングルで、そんなところで戦って死んだのだろうなと、なんとなく似たような熱帯の風景で伯父を思った。


戦争体験者でわが家で唯一の長老の百歳になるおふくろだが、戦争のさなかを満州で逃げ惑い、引き揚げてきた親でさえ、もう百歳になる。後数年もしないうちに、戦争体験者はいなくなる。語られるのは本や記録フィルムだけだろう。


去年の春まで千代田区の千鳥ヶ淵近くで暮らしていたが、そこにも戦没者墓苑があり、無縁仏のニューギニアなどから遺骨収集団が行って持ち帰った何万という柱が埋葬されている。わたしは散歩がてら近くなのでよく行った。靖国神社も近いので、九段の坂をよく歩いた。生活圏にいつも戦争の臭いが漂っていた。小石川で暮らしていたときも、後楽園駅の隣に東京都の戦没者霊苑があった。綺麗に整備された公園になっていて、たまに散策していた。


8月になると生前に逢ったこともない伯父たちのことを思い出す。おふくろは、わたしのことをニューギニアで死んだ兄に似ているとよく言う。生まれ変わりのようだと。ギターを弾き、詩を書いていた伯父と性格と顔も似ているというのだ。遠ざかる戦争に思いだけがいつまでも残り続けている。

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