コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

星と虹を追いかけていたころ

小学生のときに、学校で習った星座のことで、空を見上げると、そこが宇宙なんだと改めて思わせた。それまでは、意識することなく、星なんか天の穴ぐらいに思っていたろう。それが形があり、毎日毎時間移動して刻々と変わってゆくのが面白いと、暗くなって外に出ると、近所の友達と急に星を追いかけたときがあった。そのときは、突然、星が掴まえられると思ったからだ。すぐ手が届くと錯覚したのは子供だからだろうか。友達と、「星を獲りに行こう」と、東の山へ向かって走った。まるで童話のようだが、子供というのは途方もないことを考えるものだ。

 小学生の低学年のときに、玩具の小さなカメラを買ってもらう。ミニカメラは形は大人のカメラのような恰好をしていたが、子供の手のひらに隠れるくらい小さかった。それに小さなフィルムが入って、ちゃんと写せるのだ。現像してもらったら、画質は悪いが、なんとなく人が写っている程度のものであったが、それでも自分のカメラだと夢中で遊んでいた。

 あるとき、それで空から街を写してみたいと、水素ガスの風船を縁日で買ったので、それに祖母の裁縫道具から、黙って糸を拝借すると、風船にカメラを結んで、糸を足してもどんどんと空に上らせた。そこが子供で、シャッターはどうして押すのかと、撮るところまで考えない。ただ、万が一、写真が撮れていれば、青森市の上空から、わが家の屋根が撮れているはずだった。糸はひと巻きで何メートルあったのか、風船は風もなく、どんどんと上空に上がり、小さくなってきたが、家人に見つかり、やめさせられて、中断した。糸はまた巻き戻して、風船を引き寄せて失敗に終わる。


 冒険が好きなのは、男の子はみんなそうだろう。近所のお兄ちゃんたちが、お寺の塀から中庭に忍び込んでよく池で遊んでいた。捨ててあった板きれを繋いで筏を作ると、それに乗って遊んでいた。それを見たわたしは、小学生の1年ぐらいだったか、突然、そうだ、筏を作ろうと、お兄ちゃんたちの真似で、廃材の板などを外から拾ってくると、祖父から釘と金槌を借りてきて、ノコギリで板を切ると、部屋の中で大きな筏を組み立てていた。家人はみんなにやにやと笑って見ている。ご飯だよと言われても、いらないと、夢中で作っていた。食卓に座り、昼ごはんを食べていながら、笑って見ている大人たちの視線が分かった。「それで何をするのかな」と、母親が聞いた。「うん、これで太平洋を横断するんだ」

 太平洋ひとりぼっちの堀江青年が単独でヨットで横断するよりずっと前だから、そこから自分もということではなかった。何からといえば、ステーブンソンの『宝島』だろうか。それは子供のときの愛読書だった。

 筏は完成した。「で、それはどこから出すんだい?」と、大人が聞いた。はっとして、そこまでは頭が回らない子供だった。大人は知っていて、教えてくれなかった。筏は大きすぎて、部屋から外に出せないのだった。わたしは泣いた。どうして黙って見ていて教えてくれなかったの? と。


 星の次は虹だった。友達と二人で、虹を掴まえにゆこうと、東の山のほうへと走った。山の手前にかかっていたので、そこまで行く途中で虹の根本に辿り着けるだろうと、どんどんと走った。虹は近くで見たらどんなだろう。触ったらどういう感触なんだろう。絵本では、虹を製造しているおじいさんがいて、自転車の後ろに積んだ箱から手回しで空いっぱいに跨る虹を作っていた。きっと、そんなおじいさんがいるかもしれない。ところが、いくら走っても虹は近くならないどころか、やがて消えてしまった。汗びっしょりになって、自分たちの町から遠くまて来て、路傍にぺたりと座り込んでしまった。虹も星も掴まえることはできなかった。それは、きっと大人になってもどこかに持ち続けて、諦めきれないで、追いかけているものだった。夢を持つのは大事だ。それは掴まえられないところが夢なのだ。子供はいつしか老人になった。それでもいまだにバカげた星と虹をとらえようと、旅に出ている。

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