コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

追分

 わたしのいるところは追分という。五差路になっている複雑な道の分岐点だ。そういう住所は全国あちこちにある。二股三股の交差点は昔むかしのそのままが残っていたりする。よく見かけるのは、道しるべだ。分れ道に「右小田原 左辻堂」とか書かれている古い石が建っていたりする。
 そういう分岐点の交差点に面してマンションが建っているので、どこに行くにも便利だった。広い県道が交差するから、バス通りにもなっていて、バス停も近くにある。平塚市はJR一本、東海道線よりないのだが、バス路線はいっぱいあって、バスでの移動は困らないくらいだ。
 その追分の交差点には横断歩道がない。地下道で結ばれているが、それがおかしい。交差点の真下がルーレットのようなモニュメントが中央にでんとあり、そこから五つか六つの出入り口が見えている。真ん中は広く、ホームレスたちが暮らしているような形跡があった。方向を間違えるととんでもないところに出る。それで、わたしはスーパーに買い物に行くときは、コンパスでもいいが、こっちの方角と、地下に降りてゆくとき、指で示して、その方角へと進むことにしている。でなければ、ここに来たころは、反対側の道路に出て、また引き返したりした。ややこしい分岐点なのだ。
 この平塚に越してきて、そろそろひと月は経とうというのに、いまだに自転車には乗っていない。すべて歩きだった。足腰を鍛えるために歩く。特に手をよく後ろまで振って歩くと肩甲骨も動かして肩こりにならないという。わたしは肩こりになったことがないのはそれだろう。10キロぐらいは平気で歩くから、遠くでも歩く。往復20キロだ。
 東海道五十三次のひとつ平塚だが、江戸から七つ目の宿場町で、いまも近くに平塚宿見附の跡が残っている。国道一号線と少し違うが、一本離れたところが昔の街道筋で、市の博物館でジオラマを見たが、ずらりと宿も並んでいた。戦前はそういう江戸の臭いも残っていたのだろうが、空襲でぺろりと焼けて、古民家もいまは見られない。


 追分には旅をすればよく出会う。軽井沢に何年か前に行ったとき、レンタサイクルで追分を目指したが、12月で雪が降って積もってきたので、途中で引き返したことがあった。地図では近く見えたのに、走ってみたら結構遠い。そこには堀辰雄の記念館があって、それと古本屋があったので、覗いて来ようと行ったのだが、車でなければ移動もできない観光地だ。まして歩いてというのは無理で、それだけで時間がなくなる。
 郷里の青森市にも追分は高田にあるし、碇ヶ関や深浦にもある。そこで旅人は迷う。どっちに進んだらよかろうか。いまならナビが車に着いているが、昔の車は標識と地図を手に走ったから、右と左ではだいぶ遠回りしたりした。あみだくじのような旅もした。十円硬貨を投げて、裏と出たら左とか、そんなゲームのような旅も一人ならよくした。若いときだから、多少迷ってもそれが逆に嬉しかったりする。時間はいくらでもあった。
 いまの老後もそのときと似ていて、時間はいくらでもある。人生に迷ってみてもいい。わたしのいるGPSの位置は、いまはまさに追分の分岐点なのだ。この先、どっちに歩むか、その選択で人生ゲームのように、がらりと変わるかもしれない。迷うこともいとわないのは、それもまた面白いからだ。死んでから迷っていたら困るが、なんの責務もない老後では、どう迷おうが知れている。
 家族は、まだわたしがどこにいるのか知らないのもいる。姉二人も教えていないからそうだろうし、三男にも教えていないから、まだ千葉で暮らしていると思っている。親戚や従弟たちは、いまごろどうしているのかなと、話していたりするのではないのか。あれほど仲がよく、いつも一緒にいろんなところにドライブした7年前までは、常に連絡をとりあっていた。それが出稼ぎで上京すると、送別会もやってくれて、「もう、どこにも連れて行ってもらえないのね」と、寂しがるのだ。それから、放浪みたいな生き方で、転居が続き、七年で七回も住まいが変わった。一年に一回の引っ越しみたいなものだ。いま、どこで、何をしているのかと、案ずるより、鉄砲玉みたいな人と行ったら帰ってこないから、笑い草にはなっているだろう。


 追分。そういう分岐点で暮らすのもいいものだ。選択肢はいくらでもある。旅の途上で暮らすのだ。ふるさとは思えばもう帰る家がない。帰るときはホテルを予約して行かないと寝るところがない。ふるさとを出た人間なのだ。捨てたとは言わない。老母と親戚と墓と友達と思い出がある街だから、いつもどこかで思っている。いまは青森は遠い。500マイルも離れてという歌を口づさみ遠く離れて思っている。


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