コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

あのとき何があったのか

 仕事明けに、いつもどこに行こうかと、グーグルマップと睨めっこだ。どうも、真っ直ぐに帰りたくない。寄り道してゆくのがすっかりと習慣になる。天気がいいからなおさらだ。いままで行ったことのないところ。もう、山手線の内側には足を踏み入れなかったところはないくらいだ。それで、日付がクリスマス前の12月20日に近いことに気が付いた。そうか、あれから6年が経っていた。そうしたら、6年前に戻って歩いてみたいと、地下鉄を乗り継いで、わたしは、千石駅から地上に出ていた。この6年、そこだけは再訪していなかった。用事がないから、思い出だけではわざわざ来ることもない。千石駅から近いところに大きなマンションがある。そこに相方が一人で暮らしていた。6年前に友人の友人という芸術家の紹介で、見合いをすすめられた。見合いというのもしたことがなかったので、一度してみたいとは思った。まさか、それがこの年になり、出稼ぎで上京してきたばかりの定年を過ぎたわたしに声がかかるとは思いもしなかった。芸術家先生は、書道でも文字のデザイナーで飯を食っていた。スタッフを10人も使い、文字を売る商売だ。看板や会社のロゴタイプを創作して、筆文字だけでなく、描き文字もあった。彼の住んでいるところはわたしのいた小石川の四畳半から近い。同じ文京区だった。その紹介された女の人も文京区で、千石というと、白山通りを地下鉄三田線で三つ目だ。わたしは後楽園から水道橋と歩いて、古書の街の神保町で商売をしていたので、その白山通りを毎日のように、落札した本をカートに乗せて引いてアパートまで帰っていた。四畳半は住まいと同時に古本倉庫になっていた。芸術家先生とは彫刻家の友人の紹介で何度か一緒に呑んだことがある。酒好きで、酔いつぶれて、昼から路上にぶっ倒れていたところを、相方が通りかかって、助け起こした。それが縁で、飯を奢る。相方の娘もそこから近い文京区本郷に暮らしていたが、彼女も呼んで、三人で食事をしたという。そのとき、一人で女が暮らしていると不安なことを言ったので、わたしのことを思い出して、見合いさせることにした。あれは、神保町の古本屋と三省堂の課長、スーパー源氏の社長さんらと、忘年会をしていたときだった。酔っぱらって、歩いて神保町から小石川へと帰るとき、ケータイが鳴った。芸術家からで、会わせたい人がいるという話が来たのが12月半ばだった。
 水道橋に近いところのイタリアンレストランで昼から芸術家と相方とわたしの三人で食事をした。ワインのデカンタがいくつも空いた。芸術家は酔いつぶれて隣で寝ていたが、わたしと相方は話が合って、ずっと喋り通しで話したりないくらいだった。雨が降っていて、自転車で来たのでと、傘をさして、マンションまで送ってゆくと、並んで白山通りの夜を歩いた。部屋に上がりませんかと、部屋でまた呑み直すことになり、その広い2LDKの綺麗なマンションに一人で暮らしていることに変な感じを受けた。ひとりで暮らすのが怖いというので、そのままわたしは居着いた。初対面で、会ったその日から同棲するというのも犬猫のようでおかしいが、自然の成り行きであった。
 一緒に生活しはじめて、すぐに異常に気が付く。本人を病院に行くよう説得したが、泣いて否定するから、可哀想になる。部屋には引っ越しの準備で、業者からもらったダンボール箱だけはあったが、梱包もしていない。部屋は暖房も止めて寒かった。電気代も節約しているようだ。金はなく、冷蔵庫も空で、これはおかしいと、生活の面倒をみることになる。働かずに家にいて、家賃も滞納していても行くところがない。両親と娘はどこかに出ていって帰らない。クリスマスは、白山通りの小さなケーキ屋で小型ケーキを買って、娘も呼ぶと三人でワインも飲みケーキをいただく。そのとき、初めて娘と逢った。
 マンションはそのままあったが、相方と暮らした部屋は空いているようだ。窓からがらんとした部屋が見えた。その裏口からわたしはいつも入っていた。入り口の角に喫茶店がいまもある。フェニックスという老人が二人でやっている店で、お客も常連で高齢者ばかりだ。コーヒーを飲んで本を読んでいたら、お替りのサービスをしてくれた。映画音楽の懐かしいBGMが有線から流れていた。
 白山通りは公孫樹が黄色くなって散っていた。ケーキ屋もまだあった。東洋大学はコロナで授業はないのか閉めていた。井上圓了の記念館があるが、いつも通ってそのうち入ろうと思いつつ、まだ入っていない。京華学園もそのまま、懐かしい通りだ。春日が近くなると、道路の向かい側に渡る。ダイエーのスーパーがいまもある。そこでわたしはよく買い物した。一日食費200円でやっていた実験室の時代で、少ない年金4万円で暮らせるかと、あのときは、納豆3つで45円に豆腐3つ78円、バナナやキャベツなどを買い、魚は缶詰か魚肉ソーセージだった。
 そこから裏通りに出たら、わたしの一年住んだ四畳半の古くて汚いアパートがあった。周囲はどんどんと高層ビルが建っていて、その谷間に古い木造の建物がある。ストリートキャニオンというのだ。雨漏りしていて、部屋の中で傘をさしたころがペーソスがあってよかった。
 相方と、そこを出るまで、古本の在庫を自転車二台であちこちの古本屋に売りに行って、その代金でランチを食べたりした。
 近くの牛タンの食堂は看板が中華料理に変わっていた。後楽園にも入る。ラクーアは年末のイルミネーションでよく来た。寒いのに、お酒を二人でベンチで飲んでいた。平日の昼だが、がらんとして客もいない。ジェットコースターも止まっている。
 その遊園地の向かいにあるイタリアンレストランに入る。あのときと同じ窓際の席について、パエリアを頼んだ。あのとき、どういう人が顔を出すのか、どきどきして入口ばかり見ていた。雨で少し遅れて相方がやってきた。地味な人だと芸術家は言っていたが、そんな第一印象を受けた。
 相方の娘はその裏のマンションにいまも暮らしている。よく三人でこのレストランで飲食した。
 水道橋駅まで、よく歩いた。スマホの万歩計は12000歩の10キロと出ていた。最後に駅近くのマックで休憩する。そこも海外から戻って、住むところもなく、ネットカフェ難民でいたとき、充電のために寄ったが、コンセントがなかった店だ。いろんな思い出が転がっている白山通りだ。
 仕事明けで疲れて眠いのに、よくまた運動になった。それで千葉まで総武線で帰るのだが、ジムに寄ってトレーニングもしてゆくのだ。馬力だけは衰えていない。


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