コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

『月下の一群』を再読す

 古本屋をやり始めたときに、いろんな本が通過していった。いい本がかなりあ
ったが、値段を知らない駆け出しの若き古本屋の主人は、お客を喚起雀躍させていたかもしれない。いまのように、ネットで調べたら、すぐに相場が判るという時代ではない。他店の古書目録のバックナンバーをお客からいただき、店に座っているときは、そればかり日がな眺めていた。値段を全部覚えるということは不可能だ。江戸時代の和本から、洋書、いままで出た本の積分の世界だから、それを頭に叩き込むということは至難の業だ。眺めながら、感覚的になんとなく覚えてゆく。それしかなかった。
 その通り過ぎていった高い本の中に、初版の堀口大學訳の『月下の一群』があった。大學が訳した60人数名の詩人の代表的なフランス語を訳して一冊にまとめて、大正14年に第一書房から出版された。限定本とはいうが、1200部だから、多い。うちには二度ほど入ったが、箱が割れていたり、一部がなかったりと、完全な状態ではなかった。総革で天金と、小口の上に埃がつかないように、金が塗ってある。長谷川潔の木版が口絵に一葉ある。いわば、古書マニア垂涎の的で、マニアには愛すべき一冊なのだ。ただ、傍に置いて、眺めているだけでもいい。これぞ、本というものだという感じがしたものだ。
 あれから30年してから、わたしは千葉にいて図書館から、その文庫本を借りてきて、再読してみた。やはり、文庫本では趣がない。紙の質から、その重さ、風合いとどれも、初版にはかなわない。30代にして読むのと、70歳近くなって読むのとでは詩集の受け方が違う。言葉に酔うのではなく、深い意味に陶酔するのは、ある程度人生経験を積んだからだろう。


 万巻の書を読んで、みんな覚えているのではない。読んだ片端から忘れるから読めるのだ。便秘にならない。このたび、通勤電車内で、『月下の一群』を読み通した。若いとき、古本屋の帳場に座って、ただ、読んでいるだけの留守番ではないと。自分で言い聞かせていた。これは実演販売なのだと。お客が、「それは面白いですか」と、読んでいる本を聴いてくる。客と本の話になる。それ、買いましょうとなる。わたしは、仕入れた本で、読みたい本があれば、座っている後ろの棚に置いておく。それは読んだら売り場に出すようにしていた。すると、どうしてもその本が欲しい客が、わたしに聴く。ご主人、後ろの『月下の一群』ですが、いつ読み終わるのですか? と、そういうことがたびたびあった。まだ趣味でやっているようなところもあり、お客より自分が先なのだ。


 読んでいて、収録されている詩の中から、覚えている有名なマリー・ローランサンの詩に『鎮静剤』というのがあった。


 退屈な女より/もっと哀れなのは/かなしい女です。
 かなしい女より/もっと哀れなのは/不幸な女です。
 不幸な女より/もっと哀れなのは/病気の女です。
 病気の女より/もっと哀れなのは/捨てられた女です。
 捨てられた女より/もっと哀れなのは/よるべない女です。
 よるべない女より/もつと哀れなのは/追はれた女です。
 追はれた女より/もっと哀れなのは/死んだ女です。
 死んだ女より/もっと哀れなのは/忘れられた女です。


 という読んだことはあると思う詩だ。そこにわたしは相方を言い当てた。すべてに当てはまる。まだ死んではいないが、忘れられてもいない。だから、時折、どうしている? と、メールで生存を確認している。



×

非ログインユーザーとして返信する