コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

少与をいただく

いまの会社から賞与をいただく。たった一万円とは言わない。とても嬉しい。こんな高齢者たちにも金一封が出るなんて、気はこころとは言うけれど、契約社員でももらえるのが嬉しい。正月の餅代にはなるだろう。一人ならおせち料理に酒まで買える。
 少ないから少与と書いたが、不満なんかあるはずがない。若いときに大阪で仕事をしていたとき以来だ。それからは賞与なんかもらったことがない。勤めても、一年以内に辞めたので、賞与がつかなかった。青森に戻って、親の家業の手伝いをしたときも、役員にさせられたら、社員には賞与が出ても、役員に賞与というのがない。その後、古本屋で自営業だから、賞与なんかあるはずがない。東京に出てきて契約社員をいろいろとしたが、どこも賞与も出なかった。いまの学校が一番いい。少しでもちゃんと考えてくれている。
 若いときは、時代が時代で、高度成長のうなぎのぼりの時代であったから、賃上げも二けた。年率で17%の昇給で、ボーナスも5か月半はもらった。大阪にいたころで、大卒の初任給は7万円であったが、それの5か月半というと40万くらいにはなった。わたしがいままで手にしたことのない大金だった。それで、昭和51年に初めての海外旅行に出た。労働組合の主催で、全国の支店から参加者を集い、子会社に旅行会社があったので、そこで手配して、100人くらいがヨーロッパ3か国10日間の旅に出た。うちの堺支店からは、家電の男子、インテリアコーナーの男子、ランジェリーの女子、履物コーナーの男子他2名の6名が参加した。
 倍々まで行かないが、労働組合も強かったし、景気がよかったのか、要求は通った。店もよく売れた。いまのような消費が冷え込むとかそういう言葉もなく、特価台に客は群がった時代だ。売り出しのときは、値付けが間に合わず、わたしも自ら商品管理部の値付けのおばちゃんたち8人くらいが座っているところに入り込み、なんだかんだと世間話をしながら、子供服に値付けする。値札にスタンプで値段を押すのも速かった。一秒間に三枚は押したろう。それと手芸で使うかぎ針を使い、値札を衣服に付けてゆくのも慣れたら速い。おばちゃんたちに教わって速くなる。おばちゃんたちは、わたしのことを気に入って、当時間寛平などと人気があった吉本新喜劇の木村進というのがいて、同じ名前なので、わたしはすすむちゃんと呼ばれていた。彼女ができたと知られたときは、おばちゃんたちが団体で、売り場にぞろぞろと見にきたのは驚いた。あれがすすむちゃんの彼女かいなと。


 そんなで、羽振りがいいわけではないが、独身貴族で、三日に一度は飲み歩き、女の子たちにランチで南海グリルの海鮮やステーキを奢ったり、いまはないヒロタのシュークリームはよく手土産に女子寮に持たせてやったりした。金があるからと飲食には使うが、それと中古レコードを買うぐらいか。後に職場の先輩から、車を買うことにもなる。初めてのマイカーで、カローラのクーペだった。もらうものはもらっても、貯金が全然なかったのは、やはり人間、金を持たせると、いいことがない。使うばかりで貯めることを知らないのだ。若いというのは、欲求の塊みたいなものだ。いまの老人とは違う。我慢ということも知らない。まして節制という言葉も知らない。宵越しの銭は持たないと、すっかりと使い果たしていた。すべてつきあいだった。歓迎会と送別会には必ず出た。断らないから、別の部門からもお声がかかる。あまり話をしたこともない女の子が辞めるときも、3階フロアを代表してとか、勝手にファンクラブの会長であったことを告白して、出席しては一言挨拶させられた。どうでもみんなと楽しくわいわいと飲んでいればご機嫌だった。給与も賞与も半分以上は飲んだ。交際費というべきか。
 いまは、使い途がない。あるとすれば、温泉旅行ぐらいか。12月になれば、ボーナスをあてこんで、いろんな会社がセールを行う。ネットでそれが次々に入ってくる。その中にLCCの飛行機で成田と大分が往復で1万円とあるのを衝動買いしてしまった。3月だから、先は判らないが、コロナで出航できないと返金とあったから、予約した。ついで、別府と湯布院の温泉のホテルも予約した。二泊三日の温泉旅行だ。学生時代には行った大分だが、あのときは温泉に入る金もなく、野宿していた。若いときの仇をとるように、豪勢ではないが、大人の旅行をしている。国東半島の磨崖仏も見てみたい。少与はそれで儚く消えていた。

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