コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

青地巡礼 5 帰りは箕面に寄り道

 戻りはJRの嵯峨野嵐山駅から京都駅へ。途中の太秦の映画村もまだあった。若いときにデートで来たりした。電車から広い映画のセットが眺められた。
 新快速で京都から大阪駅までは27分で行く。それはずっと昔から変わらない。電車の中ですごい人を見た。どこからか鼾が聴こえると思ったら、立ちながら寝ている中年の乗客だった。立ったまま眠るとは、できるな。
 学生時代は明石の伯母がいて、そこを根城にして京都にも来た。大阪万博のときの夏に十日ぐらい世話になる。関西に親戚がいると何かと旅行では助かった。新快速はそのときからあった。
 さてと、どこに行こうかと、思いついたのが、箕面だった。そこには温泉もあるし紅葉の名所だった。わたしは行ったことがない。大阪の南が自分のテリトリーで、北のほうはあまり行き来しなかった。吹田市にニチイ時代の同期入社の友達がいた。わたしの結婚式に青森まで来た。その同じ吹田市に学生時代に交際してふられた横浜国大の幼馴染がいた。彼女の高校は茨木高校で、廊下に彼女の大作の絵が飾られてあったのを一緒に見に入った。高校と大学では美術部で油絵を描いていた。吹田の彼女の家に一週間泊まって、家族と共に、醍醐寺などに行ったことが昨日のように思い出される。まさか、その彼女の郷里の大阪に就職するとは思わなかった。
 大阪駅から歩いて阪急梅田駅へ。そこから宝塚線で乗り換えして箕面に行く。滝と公園と猿がいる国定公園とは知っていたが、大阪時代には一度も来ていないとは。相方は箕面の借家に何年か暮らしていた。庭付きの一軒家を借りて、大阪の職場まで通勤していた。一人娘はそこから雲雀丘学園に通っていた。ここに来た理由は、相方がどういう生活の場にいたか、街だけでも見ておこうという暇潰しなのだ。堺には実家があり、両親が暮らしていたが、離婚してからは実家に戻ることはなく、一度出た娘だからと、シングルマザーで娘を育てた。宝塚にも住んだが、この箕面が一番よかったといつも話していた。どちらも阪急電車で、どちらかというと、東京では世田谷、目黒区といったところか。大阪は南のほうは河内と、下町っぽいところがあった。北は高級なイメージがある。宝塚も箕面も阪急電車のどんづまり、終点の駅にどうして住もうと思ったのか。何か相方の大阪生活が謎で、それを解くために、半日を歩いてみる。箕面駅周辺は観光地のような、とりわけて大きなショッピングモールもなく、駅前のスーパーが入ったビルは閉鎖していた。商店街を歩いてみると、ミスタードーナツの店があった。店頭に、1号店という看板があった。そうか、ここなんだと、何度か相方から、ミスタードーナツは箕面から始まったという話を聞いていた。それと、親父からも聞いていた。店に入ると何人かの客がいた。ドーナツとミルクティを頼む。店内には、昭和46年の開店のセレモニーの様子の写真も展示してあった。わたしはその参列者の顔に親父を探していた。以前はダスキンドーナツと言った。レンタルのダスキンがドーナツもやり始めたのがわたしの二十歳のときだ。創業者の鈴木社長とは、商業界の仲間で、親父にも招待状が来た。オープンのときに親父がここに来ていた。大阪の帰りに東京のマンションに泊まった。そのとき、土産にドーナツを持ってきた。雑巾屋がドーナツを売るそうだと、笑っていた。五時間経てば捨てるんだとさと、それも驚いて話していた。初めてそのときドーナツを食べた。鈴木社長は西田天香の一燈園に入り修養する。喜びのタネ蒔きをするという経営思想にそれが表れている。まさか、そのドーナツ屋が千店を越えて全国に出店するとは思わなかった。相方が何度も話していた店はここなのかと、ドーナツを久しぶりでいただく。


 そこから今度は電車を乗り継いで宝塚へと行ってみる。宝塚はニチイの仲間たちと来ているが、駅周辺もがらりと変わる。どこがどこか判らないくらいビルと店ができて、箕面は裏山と自然が多い観光地という感じが、宝塚は賑やかで華やかな感じがした。そのいくつか手前の駅に雲雀丘があり、電車に帽子をかぶった小学生たちが乗ってきていた。相方の娘も同じ制服を着て通ったのだろうな。小中高一貫教育で、偏差値は高い。わたしの出た高校も足元にも及ばないくらいだ。相方は娘の教育にすべてを捧げた。それで、通学できる宝塚と箕面に引っ越したのだ。それで何か解りかけてきたものがある。娘の成長だけが生き甲斐で、それに母としてすべてを賭けてきた。


 夕方になり、そろそろ空港に行かないと。大阪駅から関空まで直通の電車が出ている。それに乗って浅香山だとか三国ケ丘だとか、懐かしい駅名を見送っていた。信太山には娼館があって、わたしは行ったことはなかったが、先輩たちはそんな一時間いくらとか主婦がバイトをしているとか、そんな話を耳にした。信太の森のうらみ葛の葉と、狐の母は安倍晴明の母として浄瑠璃でも有名な地名だ。隣の和泉府中には男子寮があって、よく泊まりに行った。独身男性ばかりだが、わたしが来ると客扱いで、昼から寿司の出前をとってくれたりした。
 そんなことを思い出しながら、空港に着く。そこで晩飯をと、テナントを見たら、多くが閉めたままだ。開いている店はコンビニと一部のラーメン屋だけ。マックもツタヤも閉めている。国際線がなくなり、国内線もちょぼちょぼでは、客は少ない。当分休ませていただきますという貼り紙がかなしい。開いている店でラーメンを食べて、コンビニからコーヒーを。飛行機も半分ぐらいしか乗っていない。成田に着くのは帰りは早く50分で着く。明日は仕事だ。帰れば夜中か。今回の旅もすいすいと無駄なく歩いた。あまりできすぎた旅もつまらない。コロナの現実を見た旅だった。


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