コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

青地巡礼 2 大阪

昭和49年の春に、わたしは大阪の会社に就職することになった。入社式が終わらないと、どこの店に配属されるか判らない。それでもその後にアパートを決めるのは遅すぎるので、どうして住吉区に決めたのか、自分でもよく解らない。どこの不動産屋に行ったのか、西も東も判らない新天地の大阪に単身来て、何故か粉浜南之町という、住吉大社から歩いてすぐの古い家の一室を借りた。下宿みたいなもので、風呂なしでトイレは共同の四畳半、大家のおばさんが下で暮らしていた。二階の部屋であったが、角部屋で窓が二つあり、小さな申し訳程度の流しがついていた。そこに小さな冷蔵庫を中古で買って、炊飯器と鍋があれば自炊できると、仕事が休みのときはご飯を炊いて、おかずも作った。洗濯はおばさんからタライと洗濯板を借りて昔ながらの洗濯だ。物干し台が屋根の上にあり、上れば住吉さんの杜が見えた。
 その家を探したが判らない。一年少し暮らしたが、そのあたりには大きなマンションもいまも建っていないし、古い家々ばかりだから、どこか残っているはずが、皆目見当がつかない。諦めて、南海線に沿ってあるアーケード商店街を歩いてみる。玉出というのは粉浜の隣駅だが、同名のスーパーが大阪各地に支店を出していた。そのスーパーに寄ったら、安い。思わず大根も買うところであった。そんなの買ってかじって歩くのか。大阪でなければ買えないものだけにする。懐かしいひやしあめの缶があった。夏になれば、大阪の街中に冷やし飴の店が出ていた。コップ一杯が10円で、水飴に生姜を入れて冷やした飲料だ。それがいま缶ジュースで売られている。それと大好きなバッテラも買う。
 住吉大社にも行ってみた。そこも初詣では何度か行った。あのとき、職場が隣の部門のひとつ年上のT子がいた。同じフロアの仲良しグループでねぶたに出たいというので、六人で東北北海道旅行をした。青森のわが家に泊めてねぶた祭に出した。十和田湖と函館、洞爺湖、札幌まで連れてゆく。一週間の強行軍だった。その彼女にわたしは求婚してふられた。つきあっている人が他にいるという理由だったが、拒絶する口実のようだった。そんな彼氏がいる話は聞いたことがなかった。2月に郷里の鹿児島に、退職して帰るというので、みんなはわたしに引き留めないのかと詰った。どうしていいのか判らないまま、初詣に振袖を着た彼女と住吉大社に行った。おみくじを買ったら、二人して凶であった。別れる運命にあるのかと、そのおみくじで納得したのは単純だった。そして、いま、わたしはまた同じ場所でおみくじを引いてみた。するとそれがなんと凶なのだ。一人高笑いをしてしまい、参拝客に変に思われたか。
 街は変わったが、比較的東京と違い、大阪は極端な変貌はしていない。神社仏閣はそのままだ。だから、いつまでも思い出が温存されているのだ。
 住吉から上町線のちんちん電車に乗って、天王寺まで行く。嬉しいことに路面電車も昔のままで床のリノリウムはすり減り、窓も木枠のままなのだ。わたしは、若いときに神ノ木駅から乗って、新世界に遊びに行った。帝塚山女学院も次の駅で、わたしの下宿の裏にある。相方はそこの大学を卒業した。お嬢様学校で有名だ。何かと縁がある大阪なのだ。
 天王寺公園で天気がよくぽかぽかと温かいので、座って弁当に飲み物を昼飯にした。天王寺と上野は似ている。大阪環状線と山手線の駅で交通の要所、動物園と美術館と四天王寺などの寺もあり、新世界は安物が売られているアメ横と似ていた。あまり行かないほうがいいと、怖いイメージがあったが、わたしは平気でむしろ肌に合っている町として、三本立ての安い邦画を見たり、びっくりぜんざいという洗面器みたいな容器に入ったぜんざいが150円で、それを楽しみに食べに行ったりした。やり手婆が、兄さん、いい娘おるでと、声をかけてくるいかがわしい雰囲気もあった。
 通天閣には、幕がめぐらされ、そこには「明けない夜はない」「マスクの下は笑顔」と、書かれていた。いまでも着るものは安い。床屋もカットだけなら680円とある。その近くに世界の温泉という大きなスパがある。前に入ったことがあるが、時間がないのでやめにした。ホテルの大浴場で我慢しよう。大阪にも近年スーパー銭湯が乱立していて、温泉が気軽に楽しめるとネットに書かれてあった。
 新世界も暇だった。客がいない。きっとコロナでないと外人の観光客でひしめきあっているのだろう。ビリケンさんの像があちこちにある。それと射的だ。それは大阪らしい。メイド射的もあって驚く。そこから日本橋まで歩く。東京の秋葉原と同じででんでんタウンという電機店ばかりが軒を連ねる。若いとき、ステレオが好きで、そこもよく歩いた。ニチイの別の支店にいた同期入社の青年と研修で一緒になり、ステレオ気違いの彼と話が合って、それから休みのたびに一緒に日本橋を歩いた。彼は母親が南米のヒスパニックの混血で、見た目はすっかりと外人だったが、喋らせると関西弁で早口、それがとても可笑しかった。彼のことも思い出した。どうしているか。
 ビデオカメラでずっと撮って歩いたら、SDカードが満杯になり、そこで一枚買った。今回はスマホで写真を、ビデオで動画記録も残している。
 難波で少し迷う。高層ビルがいっぱい建って、ここはどこだという感じ。南海球場はどこに行った。南海もいまはソフトバンクか。ぐるりと一周して、ようやく方向が判る。
 道頓堀も懐かしい。休みのたびに、職場の同期入社の男女とよく飯を食いに行ったりした。そこもがらーんとして通る人も少ない。異様な光景を見たように思った。
 心斎橋。そこでツーショットで撮った写真がある。鹿児島に帰った人と並んで橋に寄りかかって撮った一枚。彼女は、別れた兄貴だと思って後生大事にするねと言っていた。ひとつ年上ではないか。
 その心斎橋筋だが、やたらとドラッグストアばかり。五軒並んでいるところもある。大阪人はドラッグストアがよほど好きとみえる。ずっと歩いて船場まで辿り着いた。船場にも思い出がある。仕事でよく来た。子供服を売る部門に配属されていたが、それと販促課と二足の草鞋を履いていた。子供服では新作発表に行ったり、問屋で売り出しのワンピースを買ったりと、そのあたりは衣料の問屋ばかりなので、仕入れを任せられていた。
 やれやれ疲れたと、ホテルにチェックインする。朝からずっと歩き通しだ。一日20キロは歩くか。晩飯でもと付近を見たら、サラリーマンが利用する全国チェーンの飲食店よりない。仕方なく、酒はいらないが居酒屋でアナゴ丼の定食をいだく。何か大阪のうまいものと思っても、あるのはイタリアンとステーキとラーメン屋ばかりだ。部屋に入り、テレビでニュースを見たら、65歳以上の高齢者は旅行の自粛をと呼び掛けていた。ええ? もう遅い。来てしまった。大阪は赤信号が点滅していた。


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