コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

青地巡礼1 堺

 青春とはいつからいつまでなのだろう。人によってそれはみな違う。わたしの場合は遅れてやってきた。高校生のときは受験受験でいい思い出がない。大学生のときも暗い引きこもりに近い生活を送り、友達もいないし、何をしたいでもなく、中途半端な過ごし方をしていた。それを振り切って、22歳のときに大阪の量販店に修業のために就職したのが、わたしの人生の転機になった。がらりと180度変わる。それまでの孤独な自分は東京に捨ててきた。誰も自分の本当の寂しい暗い顔を知らない。わたしは逃亡者のように、大阪で別人になる。性格も明るく積極的なやつに変えたのだ。そのように演じて、周囲の人気者になる。それからの3年間がわたしの青春時代だった。学生運動と引きこもりと失恋のいいことの何一つとしてなかった暗い東京から、一気に明るい大阪の職場で花開く。眩しいくらいの時代が人にはあるだろうが、その大阪の3年間がそうだった。


 この20年で2回、わたしは大阪に来ていたが、16年くらい前に来たときは、大阪の編集者にお世話になったので、ご挨拶がてら訪ねてきた。飛行機が青森から伊丹まで往復がキャンペーンで安かったので、それに乗じて30年ぶりの大阪を訪ねたが、大阪時代の友達とも会って、二人と会うためだったので、時間はなかった。一泊で来たのだが、堺市には少し来て回っただけ。今回は旅なので、誰とも会わないで、自分だけの時間を持つことにした。
 その次に来たのは、8年前で、大人の休日倶楽部の四日間フリー切符が、東日本だけ自由に旅行できるのだが、西の端は福井まで行けた。そこから乗り越して、京都まで来た。古本を買い求める旅であったが、土砂降りの雨で、ずぶ濡れ。京阪電車で梅田まで来て、古書の街で本探しをしたぐらいで、そのときも、大阪に何時間も足を踏み入れていなかった。
 今回は二泊三日の予定で、大阪と京都にそれぞれホテルをGo toキャンペーンでとっていた。随分と安いので驚いたが、いまになって、自粛してくれというので、もう遅い。マスクを三枚重ねで行ってやると、キャンセルはしなかった。仕事もそのために有給休暇をとっていた。飛行機も安かった。往復で9千円と新幹線の半額以下だ。ホテル二泊入れても全部で13000円と安すぎる。その辺の旅館に一泊する料金で行って帰ってこれるのだ。
 成田空港発が朝の7時過ぎのジェットスターだった。これを使うのは二回目。LCCも破産したりして大変だ。赤字で希望退職者も募る。安い料金ですみませんと小さくなって旅行しよう。
 朝が早いので、12月に入ったばかりで暗いのだが、4時起きで始発電車で千葉から成田まで行く。空港でようやく朝日を拝む。大阪ではいつも伊丹空港であったのが、今回初めて関西国際空港を使う。泉南の海を埋め立てて、沖合に空港を作ったのもどんなものか見たい。朝、8時半に、関空に着いた。天気はいい。少し眠い。飛行機でも寝ていた。電車で大阪に出るのだが、空港からは南海電車も出ている。難波まで行くというから、それに乗る。途中の岸和田や和泉大津も懐かしい。わたしのいた量販店は泉南ブロックといって、支店が大きな街にはあった。その店の売り出しがあれば、応援に行かせられた。昭和49年からこの泉南の堺市の量販店で仕事をしてきて、大阪の南はわたしの青春の舞台だった。
 沿線の駅名にも思い出が絡みつく。電車で途中下車した。寄ってみたいところが出てきた。浜寺公園だ。昔は海浜公園であった風光明媚な広い公園だが、そこは店対抗のソフトボール大会が行われ、わたしは主審にさせられた。野球も知らないできないと断るが、だったら審判をやってと無理やりさせられた。ルールも知らない。ストライクゾーンも判らないで、ストライク、かな? と、自信なく小声で言ったら、バッターは怒った。「かな、とは何だ、かな、とは」副審も集まってきて、もっと自信もってやれよと言うから、審判を降りてふて腐り、ベンチにいた。その後、みんなで電車で難波に行って飲もうということになるが、わたしは一人、帰ると言い出す。そうしたら、女の子たちが、わたしにみんなが行こうというのに、どうして? と、傷つくこと言わないでと頼むのだ。そんなことを思い出して笑う。
 浜寺公園はまた相方の実家のあるところで、ここの小学、中学と卒業している。前に警備の仕事をしたとき、同僚で仲のいいのが、同じ浜寺の中学も出ていて、奇遇を感じたものだ。何かとそういう縁のある土地だった。嬉しいことに、阪堺線の路面電車と南海電車のどちらの駅も、当時のまま残っていたことだ。昭和初期に建てられた駅舎がカフェとして保存されていた。残念ながら、当日は定休日とかで休みだったが。
 そのちんちん電車で綾ノ町で降りる。わたしが量販店で働いていたとき、住吉から堺市に引っ越してきたとき、住んだ街が職場から歩いて10分余りの錦綾町というところ。高速道路のすぐ脇に建つ五階建の五階の部屋を借りた。家賃はワンルームで風呂とエレベーターはなかったが、12000円と安かった。安い理由が住んでから判った。高速道路の騒音に夜中でもうるさく、慣れるに時間を要した。
 綾ノ町には小さなアーケードの商店街があった。電車から降りたら、すぐにあったが、まだあったのはいいが、やっている店はほとんどなく、屋根は破れ、通りは暗く、廃墟同然であったのだ。その入り口にある喫茶店も何度か来たが、そのまま建物は残っていたが、いまは閉鎖されたまま、看板も出ていない。職場の仲がよかった女の子が酔って、わたしの部屋に行こうと腕を組んで歩いたことがあった。彼女のそのときの決意みたいなのが腕の力に感じられた。このまま行くところまで行ってしまうのかと、どきどきした。すると、わたしたちの後ろから、呑み屋からついてきた職場の二人組がいて、どこへ行くんだと酔っぱらって声をかけた。どこかまた呑み直そうぜと、わたしが連れて行ったのは夜はスナックになるその喫茶店だった。そこで四人でまた呑む。彼女は邪魔者が入ったので、酔いから醒めたように、一人離れて座っていた。その後ろからついてきた友達の一人と、後に彼女は結婚することになる。いまでも連名で年賀状が来る。どうしているだろうか。
 そうした些細な場面がいくらでもこの街には遺跡のように転がっていた。それを訪ねる聖地としての巡礼をしている。
 わたしの一年半暮らしたアパートはいまはない。跡地に小さな公園ができていて、そこのベンチでしばしくつろいでいた。墓石のように昔の町名の錦綾町が碑として建てられている。五階からは仁徳天皇の御陵の杜が見えた。アパートの一階には喫茶店がテナントで入っていてよくコーヒーを飲みに入った。仕事場から近いので、わたしの部屋は何かと麻雀で終電がないとか、呑みに行ったらタクシー代が勿体ないから、泊まりにゆこうと、社員のための簡易宿泊所にされて、いつも誰かが泊まりに来ていた。
 ニチイという量販店はとっくに倒産して名前もない。その店の跡もオフィスビルになっていた。堺東の駅前から続く商店街は面白い。一角が商店街だが、人一人通れる小路がすべて飲み屋になっている。いまもそれは同じだった。知った店はすべて47年の間に潰れたり変わったりして残っていないが、嬉しいことに一店だけモナミという喫茶店がいまも角地でやられていた。しかも、内装も籐椅子も当時のままで、マスターも健在だ。少し話をしたら、60年やられているという。白髪で80歳はとうに過ぎた方だが、当時はわたしも22歳でマスターも30代であったのだろう。そこのモーニングサービスも懐かしくいただく。その喫茶店は職場の女の子たちとよく昼間にランチで来た店だった。
 商店街を歩いて、半世紀近く昔の遺跡を探し歩いた。すると、白い建物の横に、カフェモンブランという横文字のサインがいまだにあるを発見する。店は焼肉店になっているが、建物の外観はそのままだ。最初の奥さんと交際していたとき、みんなに見つかるとうるさいので、商店街の端にある、職場からは遠い喫茶店で休み時間に密会した。その店がモンブランだった。街も人も変わる。そこを回想するように老人になりかけたわたしが歩いている。
 駅横の高島屋も健在だ。そこから南海線で住吉東へと向かう。最初に大阪に出てきたとき下宿した家がある街だった。


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