コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

ローラーカナリアを飼ったころ

 わたしはペットは嫌いで、飼うことには反対してきたが、いままで、子供らが拾ってきたり、もらってきたりした小動物はいろいろとわが家にはいた。犬だけがいなかったが、猫は延べで7匹いたし、ハムスターにウサギ、モルモット、モモンガまでいた。モモンガは何か月か前妻の職場の人が海外旅行するというので、預かったのだが、なつかなかった。小鳥もいろいろと飼っていた。わたしが小さいときは、十姉妹を祖母が世話していた。息子たちが小さいとき、お年玉で、小鳥を買った。わたしがダメと言っても、ちゃんと世話するからと、子供の言うことはあてにならない。文鳥を買ってきたが、世話をしたのはひと月だけ、玩具と同じですぐ飽きる。その世話はいつもわたしに回ってくる。仕事が増える。
 今週号の週刊誌にコロナにペットが移るのかという特集記事が載っていて、一部の動物には感染して、それが強いウイルスに変わるのが厄介だという世界の事例も紹介していた。もし、犬や猫を介して、家族に感染するようになると、全国的にペットの薬殺大量処分が始まる。それはきっとパニックになるのだろう。
 いまのところはそんな心配はなさそうだが、いつ何が起こるか判らないところが怖い。
 それについて、自分が若いときに、ローラーカナリアを飼ったときのことを思い出した。学生時代に、小鳥が好きな幼馴染が同じ学生で、新宿のアパートにいてよく遊びに行った。ダルマインコを飼っていて、歩く姿が愛嬌があって面白いと、わたしも飼いたいと思った。それで新宿西口にあった小鳥屋に行ったら、小鳥といえども高くて買えない。安いものがないかと見たら、カナリアがあった。それなら買えると、鳥かごとエサと一式買って、マンションに持ち帰った。わたしの二十歳のときだった。
 名前はローリーと名付けた。だけど、鳴かないのだ。ローラーカナリアは高い美声で鳴くと思ったのに、全然鳴かないどころか、なつかない。手乗り文鳥のように、手にも止まらず、世話してもそっけなく、同居鳥で、餌まで食わせてやっているのに、わたしを怖がり、鳥かごの中で逃げ回る。それはつまらない鳥だった。ただ、餌と水を毎日取り換えて、糞の始末をして、換気もしてやりと、夜は明るいと眠れないだろうと、風呂敷をかけてやったりした。
 青森に帰省したときも連れてゆく。特急はつかりで帰るときも、ダンボール箱に鳥かごごと入れて、8時間の旅をした。東京と青森を行き来したが、わたしが大阪に就職したときも引っ越し荷物と共に連れてゆく。住吉のアパートから堺市のアパートまで、さらには名古屋まで引っ越しにつきあった。
 最後は、名古屋のアパートの窓に鳥かごを置いていたら、留守の間に猫にやられて死んだ。6年もわたしと共にあちこち暮らした鳥だった。まさか、近所の猫が、アパートの二階の窓から入ってくるとは思わなかった。最初の奥さんが、わたしが仕事から帰ると、神妙な顔で待っていた。叱られるかと思って何も言わなかった。鳥かごの中で横たわるローリーを本当は、鳥が嫌いなわたしは、そっとガーゼでくるんだ。死んだ鳥が一番ぞっとする。それなのに、小鳥を飼っていただなんて。
 二人して、近くのお寺に行って、ローリーの亡骸を墓地に穴を掘って勝手に埋めようとした。そこに寺の和尚が来て、別に叱るわけではないが、こんなところに埋めてはいけないと、掘り返して、境内にある三界万霊塔と掘られた大きな墓石の下に葬って、線香を立てて読経までしてくれた。後で調べたら、それは生きとし生けるものすべての墓という意味だと知る。ちゃんとお礼をすればよかった。若かったわたしたちは、そこまで気が回らなかった。


 愛知万博のときに、わたしは一人バスツアーに参加して、名古屋を何十年ぶりかで訪問した。万博はちらりとしか見ないで、昔住んだ名古屋と岡崎を訪ねた。そのとき、そのお寺も探したが、少し小高い街の裏にあったように思うが、それらしい寺を見つけて境内を探したが、墓石は見つからなかった。そこの寺かどうか判らない。アパートも藤原荘といったが、人に聞いても判らない。名古屋市昭和区田面町までは判るが、番地までは忘れた。覚王山の地下鉄駅から、田代本通りを南に降りたところで一年半暮らした。街はすっかりと変わり、どこがどこか判らないほど変貌を遂げていた。マンションも建って、高いビルなんかなかったのに。
 カナリアの墓はとうとう判らず終い。まさか、小鳥の墓を探して名古屋に来たわけでもあるまい。それは思い出の墓であったのだ。街の面影はどこにもない。ヤキトリ屋も銭湯も小さな八百屋もひとつとして残っていなかった。駆け落ちして逃げてきた名古屋で、つつましい隠れの生活をしていた街は、遠い過去にしかないのだ。

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