コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

自分のラストシーン

 NHKテレビで、終活をやっていた。晴海かどこかの展示場で、これからの新しい葬儀のかたちと、全国の業者たちの提案で、会場いっぱいにハイテクな葬儀スタイルの企画などが展開されていて、それについて、マスコミ各社が報道していたのだ。
 自分の終活なんか考えたこともない。まして、いまから老人施設に入る準備だとか、エンディングノートだとか、そういうことも考えたことがない。冗談で考えたことはある。自分の葬儀は如何に受けるかと、受けを狙った企画は自分で考えたことがある。
 坊主は呼ぶな、祭壇もいらない。弔辞も長いから割愛。遺族の挨拶もしめっぽいからいらない。弔電が来てもどうせ政治家だから一切読まなくていい。だから、葬儀屋も必要なし。金がかからない方法で、公民館でもいいが、野原にテント張ってやったら場所代はかからないと、できるだけ金のかからない葬儀をする。だけど、坊主一人にかかる金で、コンパニオンを一時間頼む。一人6000円として10人の若くて綺麗な人ばかり集めて、何をさせるのかというと、ひたすら、泣き女をしてもらう。それも前列に座らせて、わたしの棺を囲んで泣いてもらう。それだけでいい。そうすれば、参列した人たちは、「あいつ、もてたんだな」と、言ってくれるだろう。読経よりずっと楽しくていい。
 それはだいぶ前の別のブログで書いたギャグだった。いま、わたしが考えたのは、もっとエスカレートしている。せっかく、葬儀に参列しに遠くからもおいでになられる親戚や友人がいたら、もっと楽しませてやらないと。そのためには、生前葬を行う。医師に、余命宣告されて、危篤になったら、いまだとばかり、企画を実行する。会場はどこでもいいが、できれば公序良俗に反するから、どこか地下のクラブでも貸し切りにして行う。おおぴらにはできないので、秘密裡に参列者を招待として呼ぶ。当然未成年者は呼ばない。酒と料理はできるだけ華やかに、豪華絢爛にゆきたい。ケチケチしないで、ブュッフェ形式でいいから、驚くほどの御馳走を並べたい。それと、風俗嬢でもとびきりの美人を集めて、裸で接待する。わたしはおはぎやシュークリームなど大好物を思いっきり、死んでもいいとたらふく食べる。どうせもう死ぬのだから、口の中をあんこでいっぱいにして窒息死したい。それと、男の理想は腹上死というが、そんなものではない。裸の美女が重なってきて、圧死なのだ。まさに酒池肉林の中で、厳かに生前葬がとりおこなわれる。もう死んでもいいという瞬間が人間にはある。そのときに死ねれば安楽死だ。
 わたしの知り合いは、坊主は呼ぶなと言った文学仲間が二人いた。二人ともお医者さんで、左翼系の方であったが、一人の亡くなられた方は親しくさせてもらい、奥様から相談された。葬儀はいらない、坊主は呼ぶな、戒名もいらないって、遺言を残して、どうしたらいいのかしらと。奥様も親戚づきあいもあるし、世間体もあるので困っていた。別の友人が亡くなった時も、そう言い残して死んだが、葬儀をしないのは、奥さんに悪意があるとまで周囲の人が言って、奥様を陰で責めていた。それでは遺言を守った奥様があまりにも可哀想だ。誤解されても困るのだ。そういうときは、遺言を新聞の死亡広告で公表したらいい。故人の遺志によってそうさせていただきますとはっきりと言ったほうが、変な噂がたたない。
 うちの古本屋の隣にあった医院の先生が亡くなったとき、通夜に参列したが、祭壇は質素なもので、読経はなし。モーツアルトのレクイエムだけが静かに流れていた。いい葬儀であったのだが、弔辞を七人が読み、一番長いのが四十分もとうとうと弁舌した。聞いていて、いらいらして、みんな腹が立ったろう。ワンマンショーではないんだ、聴いている人たちの迷惑も考えろ、自分の弔辞に酔っているんじゃねえや、みんなそんな目で睨めていた。弔辞だけで二時間続いた。はやく終われ、帰らせてくれと、みんな晩飯も食べていないし、トイレに行きたいし、喉も渇いたと、いい加減にしろという視線だった。それではせっかくの葬儀がだいなしになる。弔辞なんかいらない。いるなら,冊子にして、後日配るとか、読みたい人だけが読めばいい。誰が主役か判らない。書き手が集まればそういうことになりやすい。まして、政治家の友人が多いと、こことばかり弁舌をふるうが、口調が議場に登壇したときのような話しぶりには辟易する。


 コロナが契機で、世の中のスタイルが変わる。その中で新しい葬儀のかたちを模索するようになる。リモート葬儀でもいい。わざわざ遠くから旅費をかけて出張らなくてもいい。香典はクレジット払いで、ペイペイも使えますと。そうすれば、通夜振る舞いもいらなくなり、人手もいらない。葬儀場もいらないので、金がかからない。家族葬で、こじんまりとやって、その様子を配信する。
 わたしの母方の祖母が亡くなったときは、身内しかこなかった。50人くらいであったか、それでも戒名に80万、それも100万のところいまなら2割引にしますと、和尚が負けてくれてもその価格。葬儀屋には300万払った。わたしもその打ち合わせの場にいて、見積もりを検討したが、口ははさまなかった。同居の従兄がみんなまるめこまれた。祭壇も松竹梅のように、寿司なら特上、上、並のように段階があるのを葬儀屋が写真で見せてくれたが、親戚より集まらないのだし、見栄を張らなくてもいいものを、一番いいのにした。傍で聞いていて、孫の一人として反対すのを控えたが、たった二日で、しかも正味二時間もかからない儀式に四百万近く払うのはもったいない。祖母は97歳で亡くなったから、知り合いも少なく、孫ひ孫だけが多かった。
 わたしも葬儀はいらない。墓もいらない。死んだらどうでもいい。ましてや百年後には、わたしの名前を知る人もいない。写真を見ても、子孫の一人として判らない。この人なんていう人? 墓もいつまでもそこにあるのか。地震でどうなるか。江戸時代の墓地であったところにマンションが建つ。いずれ、墓地も宅地開発され、無縁仏ばかりで、骨がいっぱい出てきたけど、これどうする? と、工事関係者も困り顔。そんなら、初めから海に撒いて。わたしは貝ではなく魚の餌になりたい。

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