コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

古本世界から遠ざかり

テレビで読書週間だから、神保町の古書街を取り上げていた。知っている古書店主が出ていた。コロナで古書店の経営も苦しいとか。普段でも暇な古書店は、コロナでますます客が来ない。大学もしばらく休み、リモートでやられたり、この半年は痛手であったろう。
 何か他人事のような古本屋の話を聞いても、わたしはもう古本屋のおやじでもないし、離れて4年は経っていた。いまは、古本屋に入ることもなくなる。あれほど、古本とか古書の看板を見るたびに、どきりとときめいた自分が、こうも無関心になるのかと驚かされる。以前は、古木とか、古関という看板を見ただけで、さっと目がいった。古本病に冒されていた。ブックオフもあれば、必ず一冊でも掘り出しものがないかとセドリのために入ったものが、いまは、素通りする。古本屋のネット通販も覗かない。専ら図書館通いで足りている。相変わらず、蔵書は持たない主義で、本を買うことがなくなった。部屋には本は一冊もない。欲しい本、持っていたい本もあるが、それは引っ越しのときに邪魔になるのだ。わたしの私物は、衣装ケースにいまは二つもないだろう。原稿用紙も後少しでマイクロSDカードに保存されてなくなる。着るものだけだが、それとて何枚もいらない。バックパックひとつで足りる量で生活している。家具家電はあるが、それも宅配便で引っ越しのときに送らせるだけで、安物だから、いつでも捨てられるものだけにした。
 若いときから、古本マニアで生活費を切り詰めてまで買っていた本だが、人は無用になるとこうも変わる。変な話、わたしは若いときはソープランドにも通った。それが古本を買うようになってから、行くのをやめたのだ。たった一時間で何万円も取られるのがアホらしい。その金があれば、古本が何百冊買えると思っているんだと、価値観が変わる。それは外食もそうで、遊興費もそうだ。すべてが古本と天秤にかけられた。飯を食わなくても古本と、古本は食えないが、活字で腹を満たしていた。
 いまはどうか、ここに10万円あれば、何に使うのか。それはグルメでも買い物でもない。本もそれで買わないし、かつてのように音楽CDも買わない、コンサートにも行かない。その金はすべて旅行に使う。わたしの中で、いまは旅行が一番だ。旅行は思い出として残るが、モノとしは残らない。使ってしまえば、何もない。それがいい。自分だけのものとして使ったら残らないのは、食べたら残らないのと同じだ。よく人に何かをあげるとき、モノではなく、食べるものにしようというのは、もはや家の中はどこもモノで溢れていて、記念品なんかもいらないものばかり。食べたらなくなるものがいいとはよく言う。温泉に入ったり、旅に出たりと、金の使い方が次第にそういう物見遊山に代わってくるのは、収集癖にも飽きたからだ。
 子供のときから数えたら、わたしが集めたのは、プラモデル、古銭と切手、骨董ガラクタ、レコード、CD、ステレオ、コンサートのチラシ、古本、ビデオカメラ、デジカメ、モバイルノートなどいろいろとあった。すべて売却したり処分したりで、いまは手元にひとつも残っていない。それに使った金もすごかったろう。何にもならなかった。だけど、普通の人よりは、古本屋を経営していて、そこで大半は売ったから、元は取れなかったにしても、換金はだいぶできた。


 古本に囲まれてご満悦であったときは、書斎も持ち、四方が万巻の書の壁になり、埋もれた時間がたまらなかった。それがやがて仕事になっても、小石川の四畳半生活のときも、古本倉庫みたいなもので、古本の間に寝ていて幸せだった。
 いまは、本なんかいらない。図書館通いで十分、読んだら書棚に並べるのではなく、自分の頭の中に並べる。本もモノなら、いずれなくなる。水害や地震、火災などで、さらには黴や酸化で色あせて、虫食いもあって本はやがてぼろぼろになる。モノとしてではなくデータで記憶に仕舞っておくほうが、いざというとき裸になっても逃げられて、思い出として残り続ける。無一物の思想に憧れたが、いまのわたしはそれに近い。何が起こるか判らない近未来に、持てる者の苦しみ不安というものがないだけ気楽なものだ。強盗も詐欺も被害に遭うことはない。そういう心配は何もないのは清貧な暮らしに限る。


×

非ログインユーザーとして返信する