コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

相貌失認だろうか

 人の顔が覚えられない。学校で働くようになり、一年が過ぎた。だのに、先生たち60人と事務や給食、清掃さんらスタッフ40人の顔と名前が半分も覚えられない。鍵を貸し出す仕事をしているから、受付に顔を出したら、理科の先生、図工の先生と鍵をそっと出すのが本当なのだろうが、そのたびに聴いて、相手から知らないのかというような顔をされる。だれだれ先生とステーションに呼びに行くのも、何年何組の担任かというのも知らない。先生や職員さんたちの顔写真が載った学校のご案内が机の引き出しにいつも入っていて、一年前に、ここに来たときから、覚えるようにと、渡されて、それをそっと出して、いま通った先生の名前と組を覚えようとするのだが、どうしてもすぐに忘れて頭に記憶できない。仕事の上ではそれでは困る。
 若いときは、大学を卒業して、大阪の会社に勤めたときは、160人いる社員とパートさんのすべての名前と顔を一週間で覚えた。覚えるように努めて、それですぐに親しくなり、みんなの人気者になる。まずは、名前を覚えることと、積極的にみんなの中に入っていった。それは、東京での孤独な引きこもりの、友達もいなかった暗い青春を返上しようと、自分で初めから大阪では失敗するまいと、決めたのだ。
 若いから暗記力もあり、頭にすいすいと入ってゆく。それが50年も経てば、スペックも落ちて、キャッシュのスペースも少なく、データを呼び出すのも時間がかかる。記憶容量はどんどん落ちている。
 それは脳機能の障害、相貌失認というやつだろうか。失顔症ともいう。100人に1人いるといい、映画俳優のブラッド・ピットもそうらしい。年だからなるというものでもなく、若くてもなる人はいる。いまの学校の相棒たちも、わたしより年上の人もいるが、彼は、中等部から、半年前に初等部に配属されてきたから、わたしよりはこの職場では新しい。年は5歳上だが、暗記力があるのだろう。わたしより先生の顔と名前をそらんじて言える。
 前に、このブログで固有名詞を忘れると書いた。先生たちだけでなく、孫の名前もずっと会っていなかったら、思い出せなくなる。一年前に南青山のマンションで働いたときの仲間や、銀座ビルの仲間や、その前にいた隅田で警備をしていたときの仲間の顔は思い出せるが、名前はすべて忘れている。たった一年で記憶が消去されている。
 そろそろ来たかと、自分も親父のようにボケてくるのは判っているが、どうも早いなと心配する。
 親父は、晩年は、一人一人孫だけでなく周囲の人の名前を忘れていった。たまにしか来ない人はどちら様なのだ。死ぬ一年前には、いつも傍にいるわたしとおふくろと妹と四人の名前しか言えなかった。それが妹が隣の家にいて、たまにおかずを運んでくるのだが、忘れられた。次にわたしは一緒に暮らしているのに忘れられて、名前でなく「あんた」と呼ぶ。「子供は何人いるの?」と聞いた。「百人」とわざと言ったら、「ええ」と驚く。それが面白いからといつもからかっていた。
 死ぬひと月ぐらい前になったら、ついに愛妻も忘れられた。親父の中では家族すべてが他人になった。「あんた誰?」と本当になるのだ。おふくろは泣いた。とうとう、忘れられたと。


 わたしもそうなるのかと思うと、それは仕事ができないということだ。それでもブログだけは書けるのだろうか。言葉も忘れて文字も書けなくなると、パソコンの打ち方も忘れるのだろう。みんな忘れて徘徊老人になるのも一人暮らしでは迷惑をかけるだろう。
 これを書いているとき、つい夕方のことだが、近くの小学校の屋上にあるスピーカーから千葉市の広報が流れた。いつものことだが、行方不明の老人の捜索なのだ。「年は81歳、女性、髪は白髪交じりで短く、服装は……」と、市民に呼び掛けている。週に何人も出ている。そうなりたくはないが、なったらのら老人で自分がどこにいて、名前も住所も言えなくなる。死んだ祖父もそうだった。身につけている身分証がなければどこの誰か、警察でも困るのだ。祖父のときは、上着に布を縫い付けて、それに名前と住所と電話番号を書いていたので、おまわりさんが三回も連れてきた。ちゃんと見ていてくださいよと叱られる。親父も、放し飼いであったが、国道4号線の信号のない真ん中を横断しようとしていたと通報があった。浅虫温泉で暮らしていたときは、線路を渡って、特急電車に警笛を鳴らされた。そういう年寄りが交通事故にかかっている。
 青森の友人たちの名前と顔はまだ出てくるが、古本屋の常連客は忘れている。もう離れて何年も経っているし、古本屋が潰れてからは、わたしの中で用なしと削除されたのか。
 一人暮らしの老人が早くボケる。誰かと話していないと人間ダメになる。それでペットを飼ったりするのだろう。
 みんな大丈夫か。と、年が同じ仲間たちはどうなのかと聞いてみたいところだ。


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