コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

この世に客に来たと思えば

 わたしは霊魂不滅とか輪廻転生だとかは信じないが、伊達政宗が言った名言「この世に客に来たと思えば」と、お客さんで遊びに来たぐらいの軽い気持ちが好きなのだ。現世にすがることもない。無限に世界があって、われわれがいまいるのがほんの一部に過ぎないとは、うちの浄土真宗の阿弥陀様がおられるところまで十万億土の世界があるということを小さいときから聞かされてきたことを思う。万と億が掛け算されるほどの世界があるのかと子供ながらに計算してゼロがいくらつくのかと。
 年とともにだんだんと宗教がかるのはどうしたことだろう。死んだ親父もそうだった。五木先生と、五木寛之の本を読んで敬愛していた。浄土真宗だから親鸞や蓮如さんはいつも坊さんから説教されているので親しみはある。親父も愛人がいっぱいいたから、女がいっぱいの蓮如に自分を写していたか。わたしは羨ましいと思っていた。高齢で死に近づくから信仰心が復活するのかと思えばそうでもない。親父は若いときはシベリアに抑留されて、共産主義の洗脳をされて帰還した。すぐに共産党に入り、レッドパージ旋風の中でも地下活動などしていた。それも若いときだけだった。よく言われるのが、20代でマルクスにかぶれないのはおかしい。30過ぎてもかぶれているのはもっとおかしいとようなことを言う。晩年の親父は雑誌『諸君!』を読み、サンケイ新聞も読んでいた。根底では社会主義が一番いい体制だと、口では言っていたが、年と共に変わってきていたのか。無信心でもあった人が、老いてからは、宗教書を読み、毎朝おふくろと並んで仏壇に向かい観音経を上げていた。
 青森で社会党の代議士をなさったSさんも晩年は、書斎にあった本の毛色が変わった。どんな本を読まれていますかと聞いた人に、石原莞爾が面白いと勧めたそうだ。はっきりとモノを言う人が好きになる。わたしもだんだんとそういう方向を向くようになる。右だろうが左だろうが構わない。
 ただ、信心はまだ戻ってきていない。職場の教会の礼拝堂を毎度夜と朝の巡回をするときでも、敬虔な気持ちで入らない。仕事だから、そううい目で異常がないかとドアを開けて確かめているのは仕方がない。だけど、いま、コロナで学校としては、密を防ぐため、礼拝堂の祭壇に工事で使うカラーコーンを並べていた。それが無神経というか、神聖な場所に置いてと、違和感から怒りも覚えた。変なところで信仰心が生きている。


 伊達政宗が言ったように、われわれはたまたまこの世に旅行に寄っただけなのか。そう思えば気楽で、どんな悩みもバカらしく思えてくる。住むところも仮寓に過ぎない。ただいま旅行中なのだ。固定されたものなどない。流れに乗せられている。常に動いている。芭蕉もいうわれわれは旅客なのだ。明日どうなるか分からないところが面白い。行きあたりばったりもいい。いい会社に勤めて、定年までいようと人生計画を立てていたのに、コロナでリストラ、安定していた生活から、いきなり外に追い出される。大手企業でもいまは判らない。次のページが予想だにしない。この激動のときにたまたま居合わせた不幸だ。それはいつでもありうる。戦時中に爆撃で家を失った人もそうだし、津波や大地震で家族のいのちと家を奪われた人もそうだ。何が起こるか判らない。
 死んだらまた旅人に戻る。足袋に経帷子、杖と三途の川渡しの銭も持ち、血脈のパスポート、旅装束で棺桶に入る。それがわれわれの本来の姿のような気がする。


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