コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

海に至る道

 海辺で生まれ育ったわたしには、故郷という原風景が幼少のときから焼き付いている。わたしが生まれた青森市柳町は、家の前に八甲田山のほうから真っ直ぐに流れてくる幅3mくらいの川があった。その川の両側にはずらりと柳の木が植えられていた。風情のある町であったのが、町内会の若い人たち、40年も前に柳町から柳を取り去ってしまった。そのころはわたしも町内の青年部に入っていたが、わたしがそこで商売ができなくなり、自然退会した後、仲間たちは、柳の木は陰気臭いと、みんな切ったりどこかに移植したりと、柳町という名前から木をなくしてしまった。どうも、柳の木には幽霊など、恐ろしい連想をするらしい。昭和35年ころに朝鮮戦争が終ってからしばらくして、青森にいた朝鮮人たちが続々と帰国して行った。その記念として柳の木を植えていったものだが、そうした歴史よりも商店会の活性化と、イメージ戦略で駅前にとられていた客足を戻そうと、どの店も必死であったのだ。


 家の前から川沿いにずっと歩いてゆくと、三千トン岸壁に至る。三千トン級の船が着ける深さをもった港だった。漁船もついて、荷揚げをし、魚市場もあった。むつ湾は、青函連絡船と後にフェリーも発着場ができて、賑やかであった。子供のときは、さらに港を埋め立てて、一万トン岸壁を造成していた。そこには外国の材木を積んだ貨物船が着いた。港町青森であったのが、現在では船影もなく、死んでいる港だけが広がる。豪華客船のための埠頭を作ったりしたが、それとて年に何回入港するものか。青函連絡船も廃止されて久しい。フェリー埠頭は北側の油川のほうへと移転してからは、市場も南の田圃の中へと引っ越して、いよいよ船のない海になった。
 子供のときは、よく釣りをした。高校生のお兄さんたちは、岸壁で潜っては大きなアワビを獲っていた。いまなら考えられないが、アワビも獲れたのだ。それからとげくり蟹は岸壁にへばりついているのが覗けば見えた。それを町内の友だちと一緒にヤスを手によく刺したまま持ち帰った。家人に茹でてもらい、おやつ代わりにしゃぶっていた。釣りはいろんなものが釣れた。がんじゅうなぎと呼んでいたが、あれは食べられたのか。タコ貝も釣れた。綺麗な巻貝に小さな一杯蛸が入っていた。貝殻は半透明でとても美しい形をしていた。それとフグの小さいのはいくらでも釣れたが、みんな嫌って、釣れたらコンクリートに叩きつけて足で踏んだ。サヨリは引っ掛け針をいっぱいつけて、それで群れを引っ掛けた。小さいのは魚の餌にしたが、大きいのはそのまま天ぷらだろうか。
 海の傍で暮らしたいと、浅虫温泉に家を建てたときも、家の前の東北本線の線路を横切れば、サンセットビーチという人工の砂浜があり海水浴場になっていた。海まで3分50秒と、測ったわけではないが、そんなものだった。本当は線路を横切ってはいけない。踏切がちゃんとあるのだが、親父もショートカットして、列車の警笛で注意されたりした。
 なんとなく、海へ真っ直ぐに歩いて至るという子供のときからの馴染んだ光景が、千葉に来たらそのままあったのだ。青森よりは少し遠いが、自転車ではいまいるマンションの前の道をどこまでも南へ走れば、途中に国道があって、横断歩道橋は通らないといけないが、小さな川、幅はそれでも6.7mはあるだろうか、その川沿いにずっと走れば稲毛海浜公園に着く。いなげの浜と呼ばれる海水浴場で、今年は二回より入っていなかったが、コロナで遊泳禁止になり、日焼け読書のためには週に一度は通った。
 若いとき、19歳で東京の板橋で姉と暮らしていたが、海辺で暮らしたいと、親に造反して、横浜の四畳半に引っ越したときがあった。そのときも、港の傍がいいと、山下町の中華街の裏に下宿した。山下公園までもすぐで、夜によく一人散歩に行った。だけど、横浜は泳げない。海はわたしが思っていたものと違い、暗く冷たかった。
 わたしは海のない県には住めないだろう。埼玉や栃木、長野などには暮らしたいとは思わない。それで神奈川か静岡、千葉なのだ。いずれ来年もまたどこかに引っ越すのだが、海辺の町を探している。


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