コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

詩人S君はどうしているか

 相方のことで詩人仲間のS君のことを思い出した。彼はわたしと同年代で、30年以上前に、わたしが古本屋をやり始めたとき、ふらりと車で青森に来て、小さな古本屋から全集などどっさりと買ってくれた。売りたい蔵書もあるから、暇なときに十和田市の自宅に来てもらいたいと、彼は名刺を出した。十和田文化新聞の編集をしていて、別に、十和田言語研究所という名刺もくれた。話したら、三か国語をあやつるのだとか。方言の研究センターなのだろうかと、南部弁の研究所と思ったら、そうではなかった。彼の場合はどうでもよかった。まともに相手をしてはいけなかったと、後で知る。突拍子もない話から、荒唐無稽になり、最後は神の世界になる。それはずっと後で知るのだが、最初は変わった文化人が地方にもいるものだと、古本屋の客もおかしいのがいるからと、それで片づけていた。
 彼の家は農家の実家の離れで、広い家を一人で占拠していた。本がどっさりとある。聖書研究やキリスト教関係の本も多い。クリスチャンなんだろうなとぼんやりと考えながら、車いっぱいになる本を買った。いい本もある。わたしに彼がガリ版で刷った詩集をくれてよこした。自費出版の簡単なものだが、「こんなのでいいんだよ」と、厳かな装丁をした詩集でなくてもいい、読んでくれたらいいのだと、笑うところがただものではない。ワープロとプリンターで、当時出たばかりの最新の機械を使っていた。後で、わたしが仕事で使っていたキャノンの電子編集機をパソコンに変えたので、彼にレーザープリンタもつけて差し上げた。
 彼はわたしの誘いで、われわれがやっていた詩のサークルに一時入って、同人誌に発表した。彼の家に行ったとき、雑然と男やもめの足の踏み場もない部屋に、燦然と輝く金縁の額装をしたルノワールが飾られていた。わたしもギャラリーを経営していたので、それがあまりにも本物のようなので、怪しんで見ていたら、彼は、さりげなく、それはリトだけど本物だよと、部屋に全然合わない豪華一点を説明した。
 彼は自分の描いたペン書きのイラストも見せてくれた。それは面白いものばかりだった。奈良美智のようなひしゃげた女の子が描かれていた。後で、えにし屋というわたしがやっていたギャラリーの店長を十和田まで連れて行って、作品を見せた。素朴だが、いい感覚でペン画だけでも味がある。えにし屋で彼のために一週間の個展をやった。テレビ局も取材に来たが、無名の彼の作品は売れなかった。
 それから彼が、精神病院に入院したのは、二度目だったが、どうも言動がおかしいとは思っていた。頭がよすぎて紙一重とは言うがその通りだった。病院からよくわたしのケータイから電話をよこした。「誰かが横にいて話しかける」とか「助けてくれ」と、被害妄想と幻聴、幻覚と統合失調症では重症であった。それが一時間おきに電話がくるので、わたしは慣れてしまい、家事をしながら、話半分に聴いて、「怖がらずに、友達になってやったらいいんだ。寂しいやつなんだ。おれにも紹介してくれよ」と、おちょくって相手にしなかった。
 あるとき、彼はスリッパを履いて、スエット上下の恰好で、手にはボロボロの英英辞典を持っただけで、うちの古本屋に顔を出した。金を貸してくれという。これから連絡船に乗って、札幌に仕事を探しに行くという。スリッパを履いてか。おかしいので金は貸せないと断り、駅前に交番があるから、おまわりさんなら貸してくれるだろうと、そう言って店から出した。すかさず、彼の実家に電話を入れた。母親が出てきて、病院を脱走して、そこにいたのかとみんなで探していたらしい。さっそく交番にも電話を入れて保護してもらうよう頼んだ。後で親が迎えにくるという。
 彼は、前に一度、うちの古本屋に泊めてくれと来たことがあった。腹が減ったというので、息子三人はまだ小さかったが、古本屋の奥の居間で、鮭を焼いたのと味噌汁とおかずいろいろと出して、みんなで晩飯を食べたことがある。そのときのご飯がうまかった。また食べさせてくれと、それで十和田市から青森まで逃げてきたこともあった。
 その彼は出版社を立ち上げてサラ金から金を借りて返せず、わたしに泣きついてきたので、地裁の民事部に行って、300万くらいの借金なら、自己破産しろとやりかたを教えた。いろんな事業をしようとするので、そのたびに家族から止められる。頼むから何もしないでくれ。相方がいろいろとモノを買って使わないで置いておくのに似ていた。自分では何もできないのに、準備に借りた金を使う。
 そのうち、家族から八戸の大きな精神病棟のある病院に転院させられた。そこで知り合った女性の患者が好きになり、結婚したいと、わたしに電話で報告してきた。同病相憐れむならいいのかと、女のくどきかたを電話で伝授した。
 いまに始まったことではなかった。詩人仲間には病院を出たり入ったりしていた人たちが多かった。とぎすまされた言葉で意外な詩を書いた。うちの八戸に出した古本屋の店長をさせたのが同級生であったが、一年住み込みで八戸支店にいた。彼も、その年まで一人者で仕事もしなかったのは、精神病だった。古本屋のスタッフで何人も退院してきた人たちを受け入れて手伝ってもらった。ペンの仲間に精神科の医者で大きな病院の院長先生もいた。そこの病院にいた若者は、具合がいいと、退院してきては古本屋にきて仕事をした。パソコンは操作が早いのでデータベースを打たせた。統合失調症の若い女性もいたし、引きこもりの若者もうちで研修させた。県と施設からよく頼まれた。だから扱いには慣れていたし、普通に接していた。なのだが、いざ一緒に暮らすとなると別で、そこには家族と同じ苦痛もある。
 S君はどうしているだろうか。あれから10数年連絡もしていないし、会ってもいない。古本屋がなくなると余計連絡がつかなくなる。そういう病気の人たちを面倒みようというのは昔からわたしにはあったのだ。それでもどうしようもない。できる仕事だけやってもらうよりない。接客はできないので、店番もできないし、電話もとれない人もいた。それに比べたら相方はましかなと思うのだ。

×

非ログインユーザーとして返信する