コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

南島小記 3

 宿に戻ると、みんなして台風の話をしていた。このままでは明日の朝か今夜にでも宮古島に渡れる大橋は封鎖されるだろうと言う。それでは台風が過ぎ去るまで、この宿に閉じ込められるのか。いまのうちにと、車で宮古島へと食料の買い出しに行こうと、われわれにも宿の人が呼びかけた。この島には店がないから、長引けば食糧難になる。水道も止まり電気も止まるという。エアコンも扇風機も止まり、冷蔵庫も電子レンジも使えない。ポットでお湯も沸かせないとコーヒーも飲めないのか。ガスはプロパンだからお湯は沸かせるという。宮古島のスーパーでは冷凍食品とアイスなど溶けたら売り物にならないのは半額以下で投げ売りすると、いつものことのようだが、そう言って、みんなで買い出しに出かけた。可笑しいのが、宮古島に行くとなると、それっと全員がマスクをして出かけるのだ。わたしはまた留守番。こっちはここにいるつもりはなかった。脱出を考える。帰りの飛行機は明後日だが、キャンセルしたらキャンセル料も取られるが、格安ではチケットが買えないばかりか、台風で足止めをくった観光客でその後の便は奪い合いになるという。それなら、便が出るかどうか、ぎりぎりまで待つか。航空会社から欠航のメールが来たらフライト変更をすれば優先される。どうなるか分からないが、どうやら台風の進路予想は宮古島を直撃で、ちょうど22日の帰りの日が暴風圏になるとスマホの台風情報では言っていた。
 みんなが買い物から戻ってきた。それぞれが何日分かの食料を買いだめした。この宿では朝飯はあるが、昼と夜の食事は自分で用意しなければ、周辺の食堂も明日からは閉めるだろう。それと、防災のために懐中電灯と携帯ラジオ、電池などとスマホのモバイルバッテリーなども用意されていた。電源がなくなればスマホも使えない。情報も連絡もなにもなくなるのだ。
 どこの家でも玄関にネットをかけているのが分かった。台風でいろんなものが飛んでくるのでガラスが割れないようにするためだった。多くの家屋は窓に格子の鉄枠があり、木造家屋は少ない。戦前のような屋根に大きな石の重石を載せている家はない。みんな鉄筋コンクリートの四角い家ばかりだ。それは台風に強いのだ。
 本当は、夕陽が綺麗で、晴れていれば、島の展望台からも東シナ海に沈む夕陽が眺められた。それもなければ、夜の満天の星もない。その二つも見たかったが、ずっと雲が覆っていた。
 晩飯はみんなで近くの食堂を予約していたので行きませんかと、わたしにも声がかかった。近くの食堂とは、わたしが昼に食べに入ったところだ。それが満席で観光客も行くところがないので、そこで酒盛りしていた。地元の人たちも来ている。奥の小上がりが貸し切られ、女性三人に男性三人がテーブルを囲む。飲み物は生パッションフルーツと泡盛の焼酎割にした。食べるものはシェアすることにした。宮古ソバを使ったナポリタンとゴーヤチャンプル、ガパオライスにおからとひじきの一品もあった。大皿に二人分はある。それをみんなで小皿に寄り分けていただく。話はもっぱら旅行の話で、どこがよかったかという情報交換だ。わたしのように自由人が多いから話が合う。
 今日来たばかりの女性は海に少し行っただけで、明日からは閉じ込められるのかと落胆していた。もう一人の名古屋の女性はレンタカーを借りてきていて、返せないで料金だけかかる。旅の前半は楽園でユートピアであったのに、後半は失楽園のディストピアになるとは。
 女性たちは憂鬱な様子であったが、わたしは、こんな体験もないから、千載一遇のチャンスと別の意味で台風経験を楽しもうと提唱する。前にローマに行ったとき、何十年ぶりかの大寒波で、30センチの積雪に見舞われ、観光地はすべて閉鎖。地下鉄しか動いていないが、あまりにも寒いので、移動して歩いたが、ヴェニスもミラノもピサもポンペイもダメで、南端のレジョまで南下したらようやく雪がなかった話をした。それでもいい思い出になったと。物事は考えようだ。
 食堂は安かった。一人千円ぐらいで飲んで食べた。帰り道は外灯もなく真っ暗で誰か懐中電灯を持ってきていた。宿に戻ると、三泊目は泊らず、わたしだけ宮古島へと逃避すると話した。大橋が封鎖されなければねという。明日のバスは朝一の9時前に来るとあるが、それも怪しい。1700mの長い橋を歩いて渡ろうと言ったら、それは危険すぎると宿の人に言われた。風も波もあるからそんなときに橋なんか渡れないと。
 どうにかしなければと、ともかく楽天トラベルとBookingで宿の予約だけはした。飛行機が飛んだらそのまま支払っても損がない安宿だ。宮古島市内のホステルを翌日に一泊取り、その翌日も一応別のウイークリーのマンションをコドミニアムのように貸しているところをとった。それも市街地だ。
 夜中にものすごい強風がビョウビョウと聴こえて眠れなかった。朝方、宿の人たちが建物の周辺を歩いて、台風の暴風雨に備えていてた。まずはバスが来るかどうか。コーヒーだけ飲んで荷物をまとめていたら、宿の人に市役所から電話が来て、後1時間半後の9時に大橋を封鎖する連絡があった。脱出するならいまだと、タクシーを呼んでもらう。ともかく大きな宮古島ならなんとでもなるだろう。タクシーはすぐに来てくれた。8時過ぎに宿の人たちに見送られて来間島から脱出できた。行き先は市内のドンキホーテにした。そこで雨合羽も買わないと。傘なんか役に立たない。それと当面の食料だ。
 ドンキーに入ったら、朝からすごい客がレジに並ぶ。棚はすでに買い占められてがらがら。パンとカップ麺の棚は何もない。すごい。その買い方も、かつての大震災のときのようで、あの3.11のときもおふくろとスーパーに買い物に行ったら、同じようなものが売り切れであった。要は電気が止まったら調理ができない。すぐに食べられるパンとお湯だけ沸かせたら食べられるカップ麺に集中する。みんな考えることは同じだ。それより、この島の人たちはそれに慣れているのだ。本土では台風なんか遭遇することは年に一度か二度ぐらいだろうが、沖縄周辺では毎年何十個という台風が直撃するのだ。物資が入らない。飛行機も船も止まる。それで停電で冷蔵庫もダメで冷凍食品も買っては無駄になる。それだから安くしても売れないで残っていた。スナック菓子も売り切れ。腹の足しにはなるだろうから。その中で沖縄や宮古島の名物なら残っていたので買いまくった。サーターアンダーギーという揚げ菓子だが、東南アジア一帯で街頭で売られているものと同じ、揚げたドーナツなのだ。それと体によさそうな地元の玄米ドリンクのミキという缶ジュースみたいなのと、うるまげんまいという乳酸の入った飲むライスというとろりと甘いドリンクは、前に沖縄に来たときに飲んだが美味しかった。健康によさそうだ。それは後で宿に行ったとき、同宿の夫婦に試飲させた。
 なんだかんだとあるものを買ったら、背中のバッグはいっぱいで、エコバッグまでパンパンになるくらい買った。雨と風が強い。歩道には折れた枝や並木も折れて倒れている。あんなのが飛んできたら怪我では済まないだろう。それでか、地元の人たちは外も歩かず、車もあまり通らない。
 ケッタッキーの看板を見つけた。そこは開くようであったが、10時オープンというので、それに隣接するスーパーでまた食料の買い出し。そこもレジに並び、買いだめの量がすごい。一週間分の家族の食べるものを買うのだろう。殺気立ち戦闘態勢のようなすごさがある。
 ようやくケンタッキーでアイスコーヒーが飲めた。いまなら百円というのでポテトも悪いので頼む。チキンは嫌いだからいらない。その店が冷房が効きすぎで、タブレットPCで日記やブログを書いていたら、突然、指がみんな曲がり、痙攣したように動かなくなる。初めての経験で、どうしたのかと焦る。スマホで調べたら、冷やすとよくなるのだとか。宿もそうだが、どこも冷房が強すぎる。こっちの人たちは慣れっこなのだろう。
 スマホに航空会社からメールが来た。やはり明日の午前の成田行は欠航になる。それではとすぐに25日と少し先の4日後の日曜の便にフライト変更した。台風はどうなるか分からないから余裕を持って変更をかけて取れた。それならと、すぐにウイークリーのコンドミニアムを後2晩の追加で予約した。
 宿にメールをして、荷物だけを預けてもらうよう1時に行くよう伝えた。チェックインは3時からなので、荷物だけでも重いので頼む。その宿の近くには税務署も図書館もある街中で、スーパーも大きいのがあって、また買い出し。昼飯を食べようと思うが、どこも閉めていた。開いているのはコンビニとスーパーだけのようだ。
 宿の近くに盛加越公園というのがあって、昔から使われていた井戸があった。石段で昼でも暗い誰もいない下まで行くと、ガマのように岩に洞穴が続く。盛加ガーという。その隣が御獄があり鳥居があったが、中を覗くと何もない。神様は不在なのか。そういうのは沖縄本島を歩いたときもあちこちにあった。
 宿はゲストハウスで中には大学生のお客たちが上半身裸でいた。オーナーも真っ黒でいい日焼けをしている人。荷物だけ預けて昼飯と、周辺を歩いたが、どこも閉まっている。ファミマでドリンクだけ買って、どこかの家の前に座り休んだ。どこに逃げても同じような気がした。

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