コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

復元ポイント

 パソコンでトラブルがあると、あらかじめ設定していた復元ポイントまで戻って、そのときバックアップしてあったアップデート前に戻すことで、パソコンのトラブルを解消するということがある。前に別のブログでも書いたが、もし、自分のやり直しができるなら、何年の何月に戻りたいかと、歴史にifはないとは言うが、そういうことも考えた。いままでの人生に後悔はしていないが、あのとき、別の選択をしていたら、どうなっていたのかと想像することはある。人によっては、また同じ選択をして、あなたと結婚するわという幸せだった人もいるだろう。わたしは幸せでなかったとは思わない。波乱万丈でそれなりに面白かった。
 前のブログでは、18歳の4月に戻りたいと書いた。昭和45年の大学一年の入学式前で、やり直せるなら、その復元ポイントまで戻れば、やりたいことは山とあると。学生時代は実に無駄な4年間を過ごした。一番元気でなんでもできそうなときに、わたしは引きこもり委縮していた。もったいない。そこに戻れば、まずは本をどっさりと読むだろう。いまのようになかなか頭に入ってゆかなず、暗記もできないが、外国語会話もマスターしたろうし、原書でいっぱい読めたろう。それと、女の子から誘いがあっても野暮ったく断って、引いていた。いまならがつがつと食いつくだろう。アルバイトもいくらかはしていたが、きっといろんな仕事を体験したろう。またバイト代は貯金して、海外も放浪したろう。沢木耕太郎の深夜特急と同じころだから、もっと冒険してもよかった。恋愛もいっぱいして、バイトに旅に読書と勉学にも勤しむ。大学なんか半分も行っていなかった。試験のときだけ行って単位をとっていた。学部は1500人くらいいたから、いちいち出席はとっていなかった。普段の授業は大講堂に数十人がぱらぱらと座って受講していた。それが試験になると座る席もないほど見たこともない顔ぶれがやってくる。みんな学生運動と遊びと部活とバイトで忙しい。学生の本分は勉強することではなかった。そのほかのことばかりしていた。わたしもそうだった。ヘタな詩や小説をせっせと書いて、新人賞に出したりしていた。みんな落選した。それと音楽に狂って、中古レコード店ばかり徘徊した。生活費もレコードとステレオと、コンサートのために使い果たしていた。それもまた楽しかったが、もっと別の青春があったような気がする。内向的な生活で得たものは少なかった。いまからタイムマシンでそのときに戻れば、きっとわくわくして大暴れしたことだろう。学生運動にも行ったかもしれない。


 復元ポイントとしては、もうひとつある。大学を卒業して、大阪に下宿したときだ。あれは昭和49年の4月だった。大阪の住吉と堺市に3年暮らした。それはそれで面白かったが、もっとやりたいことがいまから考えたらあった。関西に住んでいて、あまり旅行もしていなかった。京都はずいぶん休みの日に同僚たちと行ったが、奈良へも日帰りでいくらでも行けるのに、二度ぐらいしか行っていないのだ。週休二日であったから、一泊旅行ならいろんなところに行けた。3年間で行ったのが、能登半島一周と、紀伊半島一周、四国三県、鳥取砂丘と出雲大社、それぐらいしか旅行は行っていない。海外には会社の労働組合主催で、ヨーロッパ10日イギリスとフランス、オランダと回ったぐらい。それが海外旅行の初めての経験だった。
 いまはコロナでどこにも出られないと言いながら、一人でこの半年で五回も旅行に行っている。大阪で暮らして、休みのときに一人でふらりと行ったのは、信貴山、高野山、姫路、そんなところだ。城崎温泉や有馬温泉などにも行ったことがない。社員旅行では春は日帰りバス旅行、秋は一泊温泉旅館と、あちこちに行ったが、いまのわたしにしては物足りない。若いときは神社仏閣や温泉などあまり興味がなかったのか。堺市にいても古墳も見ないし、千利休や与謝野晶子の文学や史跡巡りもしなかった。ただ、職場の女の子たちと飲み歩いていた。三日に一度はみんなとあちこち飲みに行って、給与の半分は飲み代だった。それはそれでいい仲間もできて、東京では孤独だったのが、大阪では花開いたような遅れて青春をしていた。その間は創作もなく、読んだ本は何冊もなかった。そこで出会った女性と駆け落ちして結婚し、息子三人が生まれたのは、よかったのではないかと思う。そのときに戻って断りたいとは思わない。いい思い出だった。ほかにもいろんな人がいたが、誰を選んでも結果がよかったとも思われない。問題がわたしにあれば、誰と一緒になっても逃げられていた。
 駆け落ちして名古屋で貸店舗を借りた。商売をしようと資金を共稼ぎで貯めたのだ。そのとき、東京から姉がわたしらを迎えにきて、青森に帰るよう説得したから、店をやめて帰ることになったのだが、あのとき、姉が来なかったら、名古屋で青果店をしていたか、喫茶店をしていたか、いまはどうなっていたのか、そこが岐路だった。
 長いあみだくじを選びながら、いまは東京で働きながら千葉で一人暮らしている。あのとき、どっちに進んでいたらと、自分の歴史を変えてみたいのは、結果が変わるからだ。それでも復元ポイントに戻っても、愚かなわたしがすることだから、同じ轍を踏んで、いまここに辿り着いているかもしれない。


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