コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

東北返路 5

 旅行最終日の四日目だが、雨。毎日降っている。小雨か霧雨だから傘はいらない。帰りはフリー切符は夜中の12時まで平塚に戻ればいいので、気持ちの余裕はある。ホステルは起きたらさっさと出てくる。宮古駅の待合室で朝のコーヒーとパンを齧る。お土産もキオスクで買う。えび煎餅一箱。滅多に土産は買わないが、それもまた淋しい。
 三陸鉄道のディーゼルが入線する。行き先は盛と書いてサカリと読む駅が終点だが、そこは大船渡なのだ。雨で景色はけぶって見えない。車窓も曇り、さらに雲が下まで降りてきているので、ぼんやりとして幻想的といえばそうだが、景色がぼやけた帰り道になる。無人駅ばかりだが、駅名にみんなサブタイトルをつけているところがいい。新しい未来〇〇駅とか。車内自動音声でも観光案内をしてくれる。三鉄も一生懸命だ。津軽石という駅名が気になる。津軽と関係はないのか。吉里吉里駅も通る。井上ひさしの小説で有名になる。次の大槌はひょっこりひょうたん島で有名だが、海はぼやけて見えない。釜石に着く。ようやく大きな街だ。どこも防波堤と海側の整地がまだ終わっていない。復興予算は莫大なものだったろうが、果たしてちゃんと使われているのか。食い物にして群がっている業者もいるのだろう。それでのらりくらりと作業を伸ばしているのかもしれない。小石浜は名前を変えて「恋し浜」にしていた。帆立が名産で、その帆立貝に二人の名前を書いて駅の小さな展示室に吊り下げられている。何もない駅だが、途中下車しても次の列車が二時間待ちなら降りないだろう。せっかくいいアイデアを出したので、何もない駅に恋が叶う神社とお寺と教会も作ればいい。切符も恋人たちに売れるだろうし、どこにでもあるが、恋人たちの整地にして、小説を書いてもらい、映画化してと、それもよくあることだが、恋のスポットにしてしまうでっちあげでいい。熱海はそれで復活した。若い人たちがやってくると、自然と飲食店から土産物店、宿泊施設もできてくる。
 と、盛駅の終点に着いた。接続があるはずなのだが、線路がない。大船渡駅はどこにあるのだ。駅員さんに聴いた。すみません、気仙沼に行きたいのですが、接続の列車は? 赤いバスが来ますという。BRTという赤いバスが来る。JRでは津波でやられた路線を復旧せずに、バス輸送に切り替えたのかと思った。BRTとは、バスのレールがついていないの略か。調べたらそうではなかった。バス・ラピッド・トランジットの略で、公共車両優先システムというのだ。海外ではよく利用した。日本ではあまり見ないが、これからの交通体系なのだ。将来は自動運転にするらしい。これは面白いと乗り込む。専用の道路がある。一般道と交差するところには踏切もあるが、こちら側が遮断器で降りる。小さなホームのある駅はバス停でもない。それでも途中で工事があれば、一般道にも入り、高速道路も走るという縦横無尽の乗り物で、これは小回りがきく。赤字路線はみんなこうするのだろう。無人になると人件費がかからない。資本投資も少ない。津波や地震でやられたら、う回路を走ればいい。結構、地元の人たちが足で利用している。
 バス停にはJRの駅名がある。確か、まだ福島も全線開通していないとき、わたしが原ノ町まで来たときも、こうしたバスの代替輸送で電車からバス、バスから電車と乗り継いできた。そのときも、役場が駅になっていた。9年前のことだ。
 途中の陸前高田は見違えた。スーパーやドラッグストアなどの大きな店舗が並び、津波でやられた遺構はいくつか保存されていたが、町は広々とした西部開拓地に新しい町ができているような雰囲気で殺伐とした中に希望のような活気も見えた。奇跡の一本松には連日の観光客も来るようで、道の駅がモダンで大きなのができていたし、シーズンになるとどっと押し掛けるのだろう、駐車場スペースがすごい。わたしは車窓から眺めるだけでその復興の様子を眺めていた。転んでもただでは起きない。何か地元の人たちの底力を感じた。
 気仙沼に着いた。駅は港から離れていて、淋しいところだ。駅の周辺の店は軒並み閉めている。もはや鉄道を使う時代ではないというのは、ローカル線の駅はすべてがそんなふうに寂れていた。これはコロナでも震災でもなく、時代の流れなのだ。国道などのロードサイドには全国チェーンの店が張り付いている。
 この市は高野長英と何か関係があるのか。シーボルト事件や蛮社の獄の小説も読んだが、水沢で近いが、ここにもいたとか。バスからちらりとその名前を見た。
 観光案内所でまたマップをもらい歩いてみる。昼飯はここなら食えそうだ。港に至るまで、古い建物は文化財として保存されているようだ。津波でやられる前は古くていい港町だったのだろう。いまは土蔵だけは流されないで残っているのをいろんな店に改造していた。
 この町には知り合いがいた。斎藤乾一さんという陶芸家だが、今回は誰とも会わずに通り過ぎるだけとした。斎藤さんはわたしのギャラリーで一週間の作陶展をやった。それから毎年の年賀状やお電話をいただき、あるとき、陶板でうちの古本屋の名前を焼いたのを約束だと、わざわざ車で持ってきてくれた。震災のときに電話をしたが通じないで、手紙も出したが返事もない。大丈夫かと心配したが、翌年、年賀状が彼から舞い込んだ。よかった。無事だったのだ。
 もう一人、古本屋さんがいた。盛岡では毎回お逢いしていた気仙沼の古本屋さんで、津波で店は流され、店番していた奥様がそれからひと月ぐらいして瓦礫の下から見つかった。子供たちもまだ学校に行っていたが、彼も出かけて助かっている。古書組合から義援金も出した。その年の忘年会が仙台で行われたときに、わたしは息子と二人で出席したときは元気そうな顔が見られた。埼玉県北本市に移住してそこで古本屋さんをいまもやられている。
 今度は昼飯にありつけそうだと、歩いて適当な食堂に入る。耳の遠い志村のひとみばあさんのような小柄なおばあちゃんが出てきて、カキフライを頼んだら、ご注文は? とまた聞き返す。大きな声で言っても聴こえないか。すると奥の調理場から息子さんのような板前が出てきて、注文をまた聴いた。おばあちゃんは、息子さんに「分かったかえ」と聴いていた。ここで笑ってはいけない。メニューがまたすごい。気仙沼は帆立とサンマの刺身だ。刺身があまり好きではないが、出てきたカキフライはでかく、普通の倍以上のごろんとしたもの。それにマグロの刺身がついてきて、厚焼き卵にさくらんぼまで。千円と少しでは安い。食べきれるかなと心配した。年とともにもう食べられなくなっている。
 港に出たら、観光船の発着場にウッドデッキがあり、レストランとカフェがある。雨でなかったら、外にもテラス席があるようだ。あまりにしゃれているので、アンカーコーヒーという店でコーヒーをいただく。港が一望できる。ソファもゆったりとして内装もいい。イパネマの娘が流れていた。帰りにレジで抽選一回百円でやっているので、箱から籤を取る。おめでとうございます。当たりですと、その店のコーヒー券が当たるが、旅人なのでと返した。


 気仙沼から一関まで大船渡線で行く。単線の非電化、上下線がすれ違うとき待たされる。途中駅に猊鼻渓がある。車窓からは見えなかった。厳美渓は何回か車で行ったことがあるが、猊鼻渓はまだ見ていない。どちらも一関にある渓谷の名所だ。
 一関で東北新幹線に乗る。今度こそ駅弁を買うぞと、息巻いたが、新幹線がすぐ来たので買う時間もなく乗り込んだ。結局、今回の旅ではいつも駅弁を買いそこなう。このブログを新幹線の座席テーブルで打っていたら、振動が激しく、タブレットPCが動くのでやめた。スマホで音楽とスナックを弁当代わりにぽりぽり。夕方6時半には東京駅に着く。それから乗り換えて平塚には8時過ぎには着くだろう。外はますます雨脚が強くなっていた。


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