コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

東北返路 4

 宿では朝食がついた。宿の女主人が案内してくれた裏口の別棟は夜はカラオケスナックになる同じ経営なのだが、そこで朝飯の日本の定食。他に3人くらいの若い男が泊まっていた。小雨で傘をさして、石巻の市内を歩く。商店街にはここまで津波が来ましたと看板があちこちにある。商店街でもわたしの胸まで水没したので、一階で寝たきりの老人は助からなかったのではないのか。駅前の銀行の前に「津波到達地点」の碑もある。
 それでも古い建物が残っていて、それが町の重要文化財みたいになってマップに載っていたのを見て歩く。
 石巻から岩手に入るのだが、三陸鉄道の接続ができないで、ネットで調べても、今夜の宿の宮古市までは着けないことが分かった。なにせ、一日何本もない列車ばかりで三時間も待たされたり、乗ったら終点まで三時間とか、時間はすぐになくなる。ローカル線は急ぐ旅でなければいいが、それでもその日のうちに着かないと困る。それで、明日の帰路は三陸鉄道を使い、今日は乗り換えて一関まで、そこから新幹線で盛岡へ、盛岡から山田線で宮古へと今日中に着けることが判った。それまで電車がないから、2時間だけ石巻市内観光はできる。梅雨どきだから、雨は覚悟してきた。
 日和山公園という港が見晴らせる高台の公園まで歩いた。女子高があるようで、高校生が通学しているが、8割くらいはマスクをしていない。通行人もしていない人が多い。地方都市では、感染者が出なかったら、みんなマスクも意味がないと外しているのだろうか。
 日和山公園は芭蕉も来ていて、そこには句碑もある。海抜60mくらいだからたいした高さはないが、そこに上る石段の上に立つと、確か津波のときに公園の石段を駆け上がってくる避難する人たちの映像があった。わたしも石段の上に立つ。その石段が生死を分けた。港はいまは復興の公園が整備されて来年には完成するのだろうか。防波堤は高く長く、そろそろ完成するのだろう。どこの村や町の海岸線でも電車から見たら、万里の長城のように高い防波堤が築かれている。だいぶできているが、オランダのように全国どこでも津波は来るからと、海岸線が世界でも長い日本列島を防波堤で完全に囲むことは不可能だ。その土はどこから運んでいるのか。わしは福島で汚染した土をそうした防波堤の土台にしているのではないのかと思った。


 石巻から電車とは言わないか、ディーゼルなら鉄道か列車というべきか。単線で二時間に一本よりないローカル線だ。そこの終点の小牛田までゆく。田圃は青々として気持ちがいい。双葉などの原発の被害を受けたところは広い荒地で、耕作もしていないで、農業は津波もあった海辺ではもはやできないのか。塩分がまだ土中に残留しているからか。広大な農地が全滅すると高齢者の従事者ばかりだから、再生が難しいこともあるだろう。内陸は豊かだ。米どころ宮城の平野が広がる。
 小牛田で東北本線の各駅停車に乗り換えて一関まで。そこからようやく東北新幹線に乗る。盛岡行だ。新幹線も青森まで行かないのがある。やはり芭蕉と同じで、青森は奥のさらに奥の細道なのだ、と、ふて腐る。
 盛岡からローカルの山田線に乗り換えだが、時刻表を見たらまだ2時間もある。それなら昼飯だと、盛岡のジャジャー麺か冷麺でも喰おうと外に出た。盛岡は古本屋のときは古本のセリがあったので二か月に一度は来ていた。東北の古本屋はみんな仲がいい。6県の古本屋が集まる。みんないい人ばかりだった。どうしているのか。
 駅周辺は観光客相手で、冷麺が千円以上していた。とんでもないと、わたしは北上川の橋を渡り、大通りを歩いて、確か前に美味しい焼き肉と冷麺がセットになったランチを相方と食べた店を探していた。あのときは海外からすってんてんになって二人して青森に戻ってきたばかりのときだ。息子がセリに行くからと、わたしらも連れて行った。そのときは息子には言えなかったが、金が千円よりなかった。これでは二人で冷麺も食べられない。すると、思い出したのが郵便局の通帳に残高が950円くらいあったはずだ。それに小銭をATMで預金して千円にすると、札が一枚おろせた。二千円あるからランチは食べられる。そのとき、大通りから横丁に入ったところの焼き肉屋でランチ900円を見つけた。焼き肉と冷麺がセットになっていて、焼きながら食べられた。その店はついに見つけられず、駅まで戻り、仕方なくフェザンの中の店でいただく。


 山田線は単線で一輛のローカル線だが、高校生のときに宮古から三陸を友達二人とキャンプに来たとき乗った以来だ。それからはマイカーでばかり三陸は走っていた。宮古だけでなく三陸は何回も遊びに来ている。さて、ここで問題です。三陸とはどこどこを言うのか。陸前は宮城県の辺り、陸中は岩手県、もうひとつは? 陸後とゆきたいが、そんな地名はない。正解は陸奥なのだ。青森でりくと呼ばないでむつとなる。だいぶ前に八戸の種差海岸が、三陸国立公園から外されていたのが、三陸に入れられた。ここでも外されていた。
 岩手は山ばかりだが、鉄道もその藪の中を走る。小枝や葉が車窓にぶつかるが、そんなことを気にしていたら山の中は走れるかと、ばさばさとぶつかりながら列車は進む。渓流がずっと眼下に見えている。
 宮古に着いたのが4時ころで、まだ宿に入るのは早いと、市内を歩く。何度か来ているので別にいまさらという感じだが、津波でどう変わったか見たい。ここも市街地が1メートルくらいは浸水した。その標識があちこちにあった。まずは、港に出てみる。港のほうの津波の到達は8メートルを越えている。結構歩いたら遠い。海のほうはどこも護岸工事と防潮堤と津波でやられた土地の整備で、ダンプカーとショベルカーばかりが動いている。
 どこの被災地も海辺には住まないように、高台に仮設住宅を建てて住んでいたり、移転したりしているが、それでもまだ同じ土地に新築したりしている家もかなりある。リフォームしたり新築した家ばかりだ。30年に一度はいままでも来ている大津波だが、老人がインタビューしていたテレビを見たら、生涯で二度も津波で家をやられたと話していた。それなのに諸事情があって、やむなくまたそこに家を建てる。わたしはそのことを憂慮して、2011年3月28日のブログに自分の防災都市構想を書いた。
https://ameblo.jp/kitanotabibito/entry-10843560192.html


 何か自分の考えていたような未来はなく、また同じことの繰り返しをしている。防潮堤も水門も高さがない。津波は越えてくるだろうし、また家が流される。学習能力がないのではなく、予算がない、どうしようもなくそうしているのだ。
 港には道の駅が建っていた。シースピアなあどという。なあどとは、南部弁だろう。津軽弁でも言うが、「あなたたち」という意味なのではないか。汝の「な」なのだ。中に入るとすでに閉店準備で掃除をしていた。5時で閉めるようだ。野菜もほとんど売り切れてない。魚は安い。東京のスーパーの五分の一くらいか。車ですぐ帰るなら買ってゆける。
 そこから漁港を回ると浄土ヶ浜までは近道というから、岸壁を歩いた。漁船はこれから夜になると出るのだろう。浄土ヶ浜も遠い。地図ではすぐに思えたが、前に来たときは車だから、歩いてきたことがない。トンネルをいくつも潜り、浜に出る。若いカップルが二組いた。売店や貸しボートは閉めていた。津波でも白い浄土のような奇岩は昔のままにあった。海も透明度がある。浜にはチリ地震と明治の大津波のときの警告の石碑が二つ建っている。ともかく揺れたら高台に逃げなさいと書かれている。前に観光船で田老にもキャンプで行ったが、そのときリアス式海岸の断崖絶壁に標がついていて、ガイドさんが、あすこまで津波が到達しましたと教えてくれた。30メートルはある。それが昭和35年のチリ地震の津波だ。太平洋を越えてきて、なおもその大津波だった。マグニチュードは9,5というから、3,11のときより巨大な地震だった。そのときも沿岸はやられて大勢の死者が出た。吉村昭の書いた『三陸海岸大津波』には明治29年と昭和8年の大津波のことも書かれている。130年くらいで4回も大津波が押し寄せて犠牲者を出している。30年に一度と思っていい。それも10メートル以上の津波だから、防波堤はいまの高さでは防げないのだ。それでも黙々と、工事はいまも進められている。想定外とは言わせない。判ってやられているのだ。
 さて、浄土ヶ浜からのバスの時刻を見たら、奥浄土ヶ浜のバス停ではもう最終便で出た後で、ない。ええ? ここからまた1時間もかけて駅まで歩くのかと、万歩計はすでに26000歩の20キロも歩いているのに、疲れて帰れない。駐車場まで戻ると、そこにもバス停があり、宮古駅行最終便が30分待てば来るとある。よかった。


 宿はだんだん落ちてきた。最後の一泊はホステルだ。それでも素泊まりで料金は最初のオーシャンホテルと同じ。ドミトリーのニ段ベッドの相部屋でそれは高い。男性が5名くらい泊っていた。和室の食事の部屋で大阪からソロキャンプで歩いている中年男性と一緒に食事をした。近くのスーパーに入ったら、7時で閉めるとぎりぎり。半額の海苔巻きなど買ってきた。男性はいっぱい食べるものを広げて、わたしに食べませんかと勧めるが、こっちも小食で、十分。いろんな被災地の話をする。大阪の懐かしい話も。風呂はなくシャワーだけ。ユースホステルも外国では利用したが、なんとなく懐かしい。
 ベッドでブログの記録をつけようと思ったが、なんだか疲れてそのまま眠る。


×

非ログインユーザーとして返信する