コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

東北返路 2

 朝風呂に入るが、残念ながら水平線から昇る朝日は見られなかった。雨ではないがどんより。朝飯のパンとヨーグルト、コーヒーと部屋で味気ないが仕方ない。ホテルのシャトルバスがあったので駅まで送ってもらう。わたしの他に一人だけ。
 今日の泊りは宮城県の石巻だった。その途中下車するところをグーグルマップで探す。行きあたりばったりのいつもの旅で、予定を立てないからその場あたりとなる。
福島県から宮城県へと北上する。ふるさと青森に向かっているが、その手前で引き返す変な気分の旅行は、奥の細道でも、盛岡の手前で日本海に曲がって、青森には足も踏み入れない、芭蕉の旅と同じだ。
 場当たりの旅行は、駅から次はどこに寄ろうかと考える。すると、路線図で双葉町がある。9年前の震災の翌年に、わたしは福島に来ていた。ぎりぎり警戒区域まで歩いた。原発事故でどういうことになっているのか、この目で確かめてルポを書いてみたいと、原ノ町まで行き、双葉町の近くまで国道6号線を歩いた。バスもタクシーもない、走っているのは工事車両で許可のゼッケンをつけている。国道のロードサイドのコンビニもセレモニーホールもパチンコ屋、飲食店、すべて閉鎖していた。民家も誰も住んでいないで避難していた。片道20キロ歩いて疲れ果てた。警戒区域まで行けず、その手前でダウン。引き返して沿道にあったビジネスホテルに泊った。風呂で足をつる。ホテルは満室でみんな原発処理の作業員たちなのだ。車両はすべて特定の場所でタイヤ回りなどの除染をしていた。防護服を着ている人ばかりだ。
 今回は10年経っていて、双葉町も来年度からは住民の帰還が始まりとあった。泉駅から普通に乗っていわき駅が終点だ。いわき市は降りたことがない。いつも通過していた。古本屋のお客さんで親しい方がいた。いつも大量の本を注文された。その方から古書目録が何回も未着だと叱られた。何度出しても届かない。ははん、と奥様に聴いてくださいというと、女房がそんなことをするはずがないと信頼している。いつも本ばかり通販で買うから、憎々しく思った奥様が捨てているのだ。他にもそんなことがあった。それで会社に送ったら届いていた。そのいわき市も合併する前は平市と言った。ここの教会に転勤した牧師さんがわたしが小学のときにあちこち連れて行った先生で、聖書の勉強会もした。転勤してからもしばらくはハガキを書いた。教会の牧師さんも転勤するのだ。いまはどうされているのだろうか。
 いわき駅前には三越がある。その一階の食品売り場で、パンやドリンクを買う。これからの旅で飲食店のないところがあったら、飯抜きになるので非常食として買っておく。みどりの窓口に行く。久しぶりに時刻表を見た。いまはスマホで接続も調べられるから、分厚い時刻表を持ち歩く旅ではないのは助かる。それで調べたら、次の特急が双葉に停まる。それで指定席をとる。残り二回ですと窓口。指定席は後二回よりフリー切符ではとれない。効率よく使わないと。
 双葉駅に着いたら、駅舎がモダンで新しい。が、降りたのは他にカメラを手にした若者一人。取材のように撮影している。さて、どこかで昼飯と思ったら、駅前からして広大な空き地で荒野が広がる。とても飲食店なんか期待できない。コンビニぐらいあるだろうと思ったら、とんでもない。人が歩いていないばかりか、人が住んでいない。このエリアだけでなく、住民登録は避難しているので5千名以上はいるが、居住者ゼロなのだと資料パンフに書かれていた。ともかく海まで歩いてみようと、原発と津波でぺろりと何もなくなった町の遺構を歩く。途中に大きな病院があったが、閉鎖中、調剤薬局も看護学校も会社もすべての残っている建物は閉めていた。海に至る。高い堤防は完成していた。後は復興祈念公園を造ろうというのか、ショベルカーとダンプカーが整備中で作業をしている他は人の姿がない。堤防は高さを測ったら、6mくらいのものだろう。海抜10mくらいはあるのか。それでも津波は越えてくるだろう。グーグルマップで見たら、そこからは見えないが、3キロくらい海伝いに第一原発がある。そこまで近づけるようにはなった。
 大きな新しい建物は産業交流センターと原子力災害伝承館というが、それは後でパンフを職員さんからもらって知ったので、車も人もいない建物はまだ工事中かなと寄ってこなかった。実はそこには売店もありレストランもあったのだ。知らないで引き返した。たまたまコミュニティバスが出るところであったのに乗り込む。おばあちゃん一人だけ乗っていた。それから運転手さんとおばあちゃんと三人で、これからどうなるのかという話になる。おばあちゃんは怒っている。みんな住民票だけ残していわき市などに引っ越して、10年、帰ってこないのに補助金だけもらっている、おかしいねと。帰ってきたらいいのにと。わたしは、帰るなら、みんな一斉に戻らないとと口をはさむ。コンビニも医師も薬剤師も電気屋さんに大工さん、スーパーに学校に老人施設の人たちも戻らないと、住人だけ戻ってきてもこれでは生活ができない。床屋も歯医者もいるだろう。建物があっても人がいないのでは。難しい問題だった。町から人だけが消えていた。古い民家はブルドーザーで壊していた。建て直すのか。地権者がいまもどこかにいるから、大規模な開発も難しいのだろう。
 駅に戻ると憩いのスペースがあって、復興のビデオを見せて、コーヒーも紅茶も無料なのだ。そのテーブルについてコーヒーをいただきタブレットPCで記録を書いていたら、町の職員がそこに常駐していて、わたしにいろいろと資料をくれた。先にここでもらってから歩けばよかったのだ。菓子パンなど昼飯に齧らなくてもよかったのだ。双葉町のファンクラブもありますと紹介してくれたので、さっそく入会する。年会費もいらないが、何かできることと言ったら、アイデア提供ぐらいか。年に何回かのご案内もメールで送りますと、熱心だ。町は道路も整備され、観光地としてのマイナスイメージを逆手にとって全国から観光客を呼ぶよりないだろう。人が集まれば店ができる。特産品が売れる。ただ、住民が帰らない。他県で生まれた子供も10歳になり、ふるさと意識はまるでないと、先のおばあちゃんは嘆く。
 職員さんと話していたら、彼の一生懸命なのに感動し、わたしは原発に対する憎しみが湧いてきた。広大な国土を無価値にする。そこの生活を排除し、人々のふるさとをだいなしにする。これはどこの原発もこれから何があるか判らない。どこでも起こりうることだ。この国を滅ぼそうとすれば、原発にミサイルを発射したら、50発で国は住めなくなる。そんなことも考えた。津波では復興が進んているが、原発区域ではまだ先が長い。現実は見ないと判らない。テレビのニュースで見るのと、現地で眺めるのでは全然違う。歩道に生えている雑草を見ただけで、町が放置されてきた長い時間を知るのだ。


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