コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

オリンピックの意味

 オリンピック批判がコロナで初めて出てきた。何もなければそれほど中止と騒ぐこともなく、なんのためにするのかという意義まで問われることもない。そう息巻く人は、わたしと同じ、スポーツに興味のない人だろう。どうでもいい。プロ野球もサッカーも同じで高校野球も見ないから、別にやってもやらなくてもどっちでもいいよと、わたしなら、反対でもなんでもない。
 なんのためにスポーツをするのか。それは本当の意味は体を限界まで鍛えて、より健康になることだろうが、それが記録となると、限界に挑戦し、背中に国旗を背負いと、ややこしくなる。
 メダルの数なんかどうでもいい。それも前にもブログで書いたことがあるが、実にナンセンスなことなのだ。人口が何億人もいる大国と、人口が10万人しかいない南の島も国と国だから、競技に参加して競うことになる。当然、何万人のアスリートから勝ち抜いて選ばれた国を代表する選手のほうが強い。百人の中から選ばれた小国の代表選手はよほどのことがないと勝てない。中には、競技用の靴も買えない、運動施設もなく、アフリカの原っぱで走り回って裸足で練習したアスリートもいるかもしれない。そういう貧しい国もあり、ようやく日本に連れてこれる旅費を予算化できたという国もあるだろう。
 国と国の威信をかけて戦うオリンピックという競技も、戦争のような国力があってのことだ。それで金メダルがどこの国よりも多く取りたいと、争うこともおかしな話ではないか。大国が多くとってあたりまえで、全然ありがたくもうれしくもない。
 これは有名な話で、本にもなったが、青森県の西海岸の深浦町の高校は甲子園の県内予選で、0対122という日本で一番の負けの記録を作って話題になったが、一昨年より野球部員がゼロになり廃部になったとか。
 そういう選手もいない田舎だから、仕方がないのだ。寄せ集めで、ボールを投げられたら、バットを振れたらいいという部員しかいなければ、部員百人という名門に勝てるはずがない。まさにオリンピックはそれを平然と競っているのだ。
 それに比べたら、青森の山田や八戸の光星は私立高校だが、野球部もサッカー部も強い。サッカーは全国大会でよく優勝するし、野球も決勝戦まで行ったりした。それでも県民は応援はするが、地元出身の選手がいないのにやや不満もある。あちこちから連れてくるから、どこの私立のスポーツの強い高校はみな同じと思うが、そうなれば、知名度を上げるだけのスポーツかとなる。青森でも黒人の選手がよく走っているのを見かける。とうとう外人の高校生まで連れてくる。金さえあれば、どこの国であっても、連れてきて日本の選手として戦わせる。それはもう国と国でもない。国籍はどっちなのと言いたい。
 健康になるためのスポーツがいま、コロナという健康を害してまでやろうとする。そこに怒っている人たちがいる。
 先々月まで千葉で通っていたスポーツジムだが、やめる前まで毎週三回は通った。それでも会員は少なく、どこもそうらしいが、コロナで運動もやる気がなくなって、大手のジムも赤字で閉鎖が相次ぎ、経営は苦しいらしい。
 わたしはスポーツ反対ではなく、大いにやるべきだと思うが、それがサーカスのような見世物になったり、娯楽になってきていると、ちょっと違うのではないのかと思うのだ。いま、太極拳をやり始めて、その大会もあるようだが、コロナで今年も中止になったと報告を受けた。別に大会といっても、競うものではない。合気道と同じで戦わない武道だ。型を見る。見ていて実に美しいものだ。それで体がほぐされ、使わない筋肉が鍛えられる。わたしも運動はするが、人に見せるものではなく、闘うものではなく、自分との戦いで、心身ともに鍛えるためでいいと思う。そこに利害関係が絡むと面倒くさくなり、汚くなってくる。スポーツと金はいつまでも切れないものか。

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