コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

シベリアの収容所にいた父から聴いた話

前にも内村剛介の本は読んだが、『生き急ぐ』というシベリアの収容所にいたときの回顧録も断片的にどこかで読んでいた。それを図書館で借りてきて読んでいたら、親父から聴いたライチハの捕虜収容所のことが書かれていたので、親父が生前にあまり語らない人であったが、昭和20年から23年まで3年間、強制収容されたライチハ時代の話をしてくれたのを思い出して書いてみる。
 親父は二度の招集をされた。南京事件のあたりに中支で機関銃部隊で前線にいて負傷し、傷痍軍人で帰還したのが昭和13年だった。それから満州の営林署に兄も勤めていたので呼ばれて渡る。内地に手紙を書いて、誰かいい人がいたらと、写真見合いで相手を決めてしまったのがおふくろだった。それで祝言のために青森に戻ってきて、それからひと月の新婚旅行を兼ねた旅行をして満州に二人で行ったのが昭和18年のこと。そこで長女が生まれる。昭和20年の春に親父はふたたび現地招集されて、黒河のソ連国境守備隊で、いずれソ連が参戦してくるだろうと防衛にあたる。そこでは日夜、模擬爆弾を背負い、ソ連の戦車の下に潜りこんで自爆するという、いまならテロみたいな肉弾攻撃の訓練ばかりしていた。親父のいた部隊は秘密裡にされていた。肉親に居場所も教えない。それをうまく聞き出して、おふくろは赤ん坊を背中に慰問の手作りクッキーなど持って密かに逢いに行った。兵隊たちは若い奥さんが赤ん坊を連れて前線まで来たと大喜びで、久しぶりの赤ん坊をみんな抱いて可愛がったという。その部隊はやすくに隊という1500名の特攻隊で、親父はその最後のに隊に属していた。8月9日にソ連が国境を越えて侵攻してきた。事前に蛸壺を掘っていた兵隊たちは、そこに爆弾と共に隠れて、戦車が来るのをひたすら待つていた。ほとんどの兵隊たちは帰ってこない。親父も明日出撃というときに、8月14日であったが、上官から、明日、何か重大な発表があると聞かされて、みんなはその出撃をやめて待つことにした。最後の特攻兵はたった50人であったという。そこに親父がいた。終戦で命拾いした兵隊たちは、ソ連の部隊によって武装解除され、親父たちはシベリアへと連行される。親父たちが最初の捕虜で、そのためにソ連の軍隊に建設部隊に組み入れられる。後から来る捕虜のための収容所建設をさせられた。営林署に勤務していた人たちも多く、それで大工もいたから、丸太の大きな建物が次々に建ってゆく。材木はいくらでもある。山から切り出した丸太をソ連兵は馬でずるずると引いていた。それでは効率が悪いと、日本人たちは笑い、丸太をレールのように敷いて、その上を転がせた。日本人は頭がいいと感心されたという。
 ソ連全土に無数の収容所が建った。親父たちは自分たちが建てたライチハの収容所に入れられた。入るなり、親父は満人を虐待した嫌疑でひと月も独房に収監された。満人は確かに日本人によってこき使われたり虐待されたりもしたが、親父は逆にそんな尊大な仲間を軽蔑し、ヒューマニストであったので、差別することなく同等に働いてもらった。官舎に満人たちを呼んで、酒盛りをよくしたという親分肌であった。
 その嫌疑はスパイも同じで、内村剛介はそれで10年も日本の土を踏めなかった。親父は60万人とも言われた捕虜の中で寒さと飢えと病気と闘う。10万人近い人が収容所で亡くなる。同僚も随分と死んだ。同郷の下北出身の兵隊は、親父が最後を見とる。遺体を庭に掘って埋葬したいが、つるはしでも掘れない凍土で、春になるまで野ざらしにされたという。
 親父は営林署でも事務もしていたので計算ができたので、事務室でその仕事をさせられた。それは暖房がきいていて、所長の傍で机に座って事務仕事をしていたという。マルメロという名前の所長は、美男子であった親父に惚れこみ、一人娘と結婚させたいと、自宅まで連れて行ったこともあるとか。自分には女房子供がいると丁重に断ったと聴いた。
 収容所では手先の器用な人たちもいて、麻雀パイを作ってよく遊んでいたという。食事は黒パンばかり。生の鰊が配給されたので、捕虜たちは、さっそく木切れを集めて火をおこし、鰊を焼いて食べようとしたら、収容所内で火をおこしたとしこたま怒られた。食べ方も教えてもらう。鰊の切り身を生のまま黒パンにサンドして食べるのだ。刺身もあるから、カルパッチョのサンドイッチと思えばいい。黒パンの酸っぱい味とよく合うのだとか。ロシア人たちは日ごろから実に貧しい食事をしていた。外で作業中に出会う地元の子供たちは粗末な服装で裸足であったという。配給で得た飴を親父はそんなロシアの子供たちに上げたという。ロシア革命からまだ何十年も経っていないので、ソ連になっても近代化は田舎まで行き届いていないのだ。昔ながらの生活を見てその貧しい生活にショックを受けたという。
 ダモイとい声をようやく聴いたのか昭和23年の夏がくるころだ。自分もようやく日本に帰れる。それまで三度もハガキを青森に出したが、返事はなかった。みんな空襲で死んだのかと思っていた。その年に、ようやく返事のハガキが来た。弟の太三造だけは帰らないが、後はみんな元気で暮らしていると。
 親父が舞鶴で日本の土を踏んだのは8月だった。港には全国の空襲で焼け野原になった町の写真が貼られ、尋ね人の紙がずらりと貼られている。そこには青森市の写真もあった。町の郵便局から青森に電報を打った。アスユフカタカヘル ヒロジ
 親父が30歳の帰還であった。


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