コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

ハンセン病にかかわって

 ハンセン病と数日前の新聞やテレビで報じていた。いまごろ何か。患者の解剖資料などが廃棄されているという。それはわたしも聴いたことがある。前からあったことだ。いまごろそれが問題になっている。
 ハンセン病と言っても、うの息子たちは、「それって何?」と知らない。相方も知らなかった。若い人たちにはもはや過去の病気で、教科書には載っているのだろうか。
 わたしはハンセン病に興味を持ったのは、わたしの祖父母が全国に13あったらい病の保養園のひとつ、東北では青森にあった北部療養所、いまは国立療養所松丘保養園となっているが、そこでハンセン病の治療と研究にあたっていたからだ。おふくろはそこの官舎で生まれ育った。祖父はそこの園長の中條資俊先生の助手で、戦前に特効薬の研究をしていた。祖母は看護師として断種を強制的にしたり、政府からの方針で、間違った法律もあり、当時としてはやむなく処置し、業病とか天刑病とか差別的に言われていたのは、聖書にも出てくる大昔からそうで、治療法と原因が判らない無知から来ていることで、世界的にそうであった。うちの伯母は、青森の新城小学校に通っていたが、保養園の子とは遊んではいけない、移るといじめに遭い、市内の古川小学校に転校した。そこの職員の子というだけで差別もされたことを聴いた。
 祖父は腐るものと腐らないものの研究をしていて、その副産物として納豆菌の培養に成功し、大正時代の納豆製造法という札幌農学校の半澤先生がまとめた本に成田巻之助という名で論文が出ている。その本は国会図書館にあったので、わたしはコピーしておふくろに見せた。それと、園長先生と二人で松脂から採取したTRという薬を患者に注射したりしていたが、治る人もいたとか。青森のヒバの木は腐らない。それは成分のヒノキチオールがあるので、それを抽出して、それも投薬したりした。いわば、人体実験、治験のようなものであったのだろう。それでなくてもそれで亡くなる人は手の施しようがない。体の先端が腐ってどろどろに溶けてゆく。見た目から来る後遺症もあり、嫌われていたのだ。レントゲン技師もしていた祖父は、昭和18年に白血病で亡くなる。嫁に行くときにおふくろが顔を見せに病室に行ったというが、新婚旅行も兼ねて満州に渡ったときに亡くなった。
 その祖父の研究室で小さいときのおふくろはよく遊んだという。ケースに入れられた包丁はノコギリは何に使うのかと、子供心に不思議なものとして眺めていた。それと、胎児のホルマリン漬けが瓶にいっぱい入って並んでいた。それらの研究資料もすべて戦後はなくなっていたとうのだ。やはり廃棄したのだろう。
 祖母はどれだけの患者の掻はと断種をしたことだろう。生前の祖母からそれとなく聴いたことがあるが、いまなら犯罪だ。そのことで最近になり補償問題がニユースになった。忌まわしい間違った指導でやられた治療と処置の資料はすべて処分されたのだ。おふくろは、大きなツバ窯があつたと子供のころに見た窯のことをいまもいう。戦後に保養園に訪ねて行ったときはあったという。それは東村山市にある国立ハンセン病資料館にあるのだとか。わたしはハンセン病のことと祖父母のことを絡めて書いてみようと、東村山市の資料館にも行ってみた。そこでいろんな冊子や印刷物をいただいてきた。青森の図書館にある関係図書はすべて読んでメモした。おふくろは、いま、生きている人もいるし、タブーだから書くなと、きつくわたしに言った。それは諦めることにした。わたしには重すぎる課題だった。
 前に書いたわたしのブログを見つけて、松丘保養園の職員さんから電話をいただいたのが8年くらい前であったか。一度祖父母のお話を聴きたいので、お茶でも飲みに遊びに来てくださいと。さっそく、連絡して行ってみた。そこはわたしの子供のころはよく遊びに行ったところで、第二の故郷みたいなところだった。夏には蝉とりに、池では魚をとったりして遊び、患者さんたちと広い大浴場にも入って遊んだ。いまでは感染することはない。戦後はプロミンという治療薬ができてからは完全に治る病気で恐ろしくもない。感染力も弱いのだ。現在は何十人もいない老人ホームみたいになってしまったが、それでも広い施設は木造の建物はなくなったが、わたしにとっては子供時分の遊び場で懐かしい。相方も一度車で連れて行ったのは5年前か。
 呼ばれて行った部屋には6人くらいが待っていた。お茶と手作りのお菓子が用意されて、わたしの知る限りの亡き祖母からの聴いた話をした。その場にいた患者さんでご年配の方が、祖父のこともよく知っていて、成巻さんと慕われて、いい人だったと述懐していた。その方が歌人の滝田十和男さんだったのだ。歌集も出されているので名前だけは存じ上げていたが、お話しするのは初めてだった。帰りに滝田さんは握手を求めてきた。歴史を感じさせる厚い手だった。それから何年か経って滝田さんが亡くなられたとネットのニュースで知ったときはわたしは海外にいた。
 時代の証言者はだんだんといなくなる。おふくろもその一人だが、なんとか記録として書き留めておきたいと思うのだ。


×

非ログインユーザーとして返信する