コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

緊張緩和 仕事病からの快復

太極拳を習い始めたのは、自分のスピードを落とすためだった。何故か、昔からそうなのだが、生き急ぐ。どうして人より先に出なければならないのか。通勤で歩いていても、前の人を抜きたがる。まさに都会での競争に巻き込まれていた。別に余生なのだから、そんなに急いでどこへ行く。あの世が終点だから、急いで行く必要もない。死んだ親父の口癖だったが、「ゆっくりと逝かせてもらうからな。そんなにあわてることもない」だった。晩年にボケてもそれを口にしていた。それでも最後は肺がんに捉まり、肺炎で亡くなった。病気をしなかったら百歳までは生きたろう。94歳でも大往生だろうが。
 学校を退職してひと月が経った。リタイヤしてひと月はあっという間だった。まだ慣れないでいる。いままで、こんなぐうたらにすればきりのない空白の日々を過ごしたことがない。ずっと21歳のときから半世紀近くも働いてきた。学生時代も勉強という拘束はあった。してみれば、ずつと予定で埋められた人生で、自由に解放されたのは初めてではないのか。老後とはそういうことかとまだピンとこない。まだ、どこかで緊張感が残り、今日は休みと思うのだ。明日も明後日も休みなのだと判っていても、まだ隠居の初心者は、その入口でうろうろしている。
 その社会にいて、仕事という戦場で働いていたときに後遺症が続いて、どこか力が入っている。太極拳教室でも言われた。体が硬い。力を入れないでと。だらーんと腑抜けになれない。どこかで構えている。もう、敵はいないのだ。戦うこともなくなった。それだのに、戦場から戻った帰還兵は、七人の敵をいまだ意識している。肩に力が入っている。ぼけーと一日公園のベンチに座っていられない。昨日も夕方、文庫本を手に、近くの総合公園まで散歩に出た。夕暮れの公園のベンチで本を読んでいたら、蚊の集中攻撃で退散したが、暗くなれば蚊の出番なのだ。今度は虫よけスプレーを持参しよう。
 そういう散歩にしてもどこか穴埋めのように自然ではない。スケジュールは真っ白なのに、それを埋めてゆきたがる。どこかサラリーマンのときと同じ管理表の中に自分を置きたがる。それだから、太極拳でガス抜きもしたいのだ。パンパンになっている自分がかなしいのは、そういう半世紀の習慣がいまだ根強くあるので、それから脱却しなければリラックスできないのだ。
 仕事をしていたときは、デスクのパソコンに向かい、あるいは電話をとり、インターフォンでの対応、業者や父兄との対応、そういうマニュアルに縛られて、一日中緊張感が取れない。なにかミスのないよう、一番なのがポケミスだ。忘れたら大変だ。やることは、タイムテーブルに書いてある。何時何分になればシャッターを閉める。オートロックをオンにする。防犯センサーを入れる。そのひとつでも忘れたら大変だ。自分の姿勢は常に構えている硬直状態なのだ。それが自分でも分かる。どこかしこ力が入っている。頭の中までがちがちになる。それは、起きて、通勤電車に乗って、会社のタイムレコーダーを押すときも続いている。いわば、起きたら戦いがもう始まっていた。寝るまでもそれが続く。いや、寝ても、無線機が鳴る。非常ベルも誤作動で鳴ったりする。飛び起きて確認に現場に走る。夜中でもそうなので、宿直生活が警備員のときから5年くらい続いたが、ゆっくりと休めないのだ。24時間勤務とはそういうもので、寝たのか寝ていないのか判らない日常に動いている。


 ようやく、その檻の中から出られた。もう拘束するものは何もない。わたしは自由だ。何をしてもいいし、何もしなくてもいい。好きなだけ寝ていられる。目覚まし時計も退社後は使っていない。決まった時刻に起きる必要もない。なのだが、それでもまだ長年の態度は残ったままだ。
 死んだ親父もそうだった。戦前に銀座のコロンバンでボーイをしていた。まだ10代でくりくり坊主の少年であった。そのときの癖が老後になってもとれない。食卓の上の皿など、みんなが食べている間でも空いたら台所に下げる。少なくなった料理は別の皿にまとめる。せわしなく動き、自分もまだ飯を食っているときなのに、おふくろからぴしゃりと言われる。「黙って座って食べなさい。そんなのは後でしたらいいのに。こまごまと煩い」と。それは親父のかなしい習性なのだ。小僧のときに身についた仕事が晩年まで取れない。食卓の皿の位置も綺麗に整理されていないと気に入らない。いつもきちんとなっていた。
 わたしもこの病気から快方に向かうのは少し時間がかかるのだろう。まずは緊張をほぐす。時間の観念から解放するために瞑想もいいかもしれない。それは仕事病の予後なのだ。


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