コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

なぎさプロムナード

 平塚駅の南口から直線で伸びる道路がなぎさプロムナードという。こぶりの松並木のある海へと伸びる道という雰囲気が好きだ。日本の道百選にどうして取り上げられなかったのか。それはまだ道が整備されて新しいからだろう。
 平塚は駅の北口は賑わっているが、反対側南口はどこの駅もそうだが、裏口みたいに静かだ。それがごみごみしていないで、開放感があっていい。駅前の花壇とベンチのある緑地には人魚の像がある。マーメイドは湘南の海には相応しい。なんとなく、どこに行っても、海が近くにあるという町の雰囲気は同じだ。松がある。視界が開けてくる。明るい。
 そのプロムナードを歩いていると、昔、杏雲堂という病院があった跡地に文学碑が二つ建っている。その一つには高山樗牛が31歳の若さでここ平塚の病院で亡くなったとある。明治35年のクリスマスイブの日だった。湘南にはそうした保養地としての転院をする人も多く、著名人もここに別荘を構えただけでなく、入院治療をして終焉の地となる人も多く、そういう文学碑が多い。
 高山樗牛というと、わたしが思い出すのは、中学のときの国語の時間に、先生が全員に課題図書として、『瀧口入道』を読ませたことだ。清盛の時代の恋愛観は現代の子供たちは判らない。いまだに、先生がどうしてそれを取り上げたのか不思議だった。
 その石碑の隣に建っているのが有島武郎夫妻ゆかりの地とある、やはり同じ病院で5年も入院治療をして亡くなられた夫人に付き添い、この平塚に通った小説家の思いが碑として残されている。有島武郎もわたしのいたところと重なる。小石川で生まれたが、わたしもその近くで暮らしていた。さらに千代田区三番町の近くにも暮らした。有島は子供のときは青山学院にも通う。妻安子は肺結核で27歳の若さで大正5年に、この病院で亡くなる。それから有島は本格的に作家活動に入る。それから7年後に婦人公論の記者で人妻と心中するのだが、先日は鎌倉の西御門で弟の里見弴の別邸を見たり、何かと縁があるので、興味を持った。
 いまは、杏雲堂病院はなく、向かいには大きな老人施設を兼ねたリハビリ病院があり、病院敷地には松林とマンションが建っている。
 なぎさプロムナードから少し外れたところの須賀公園には、明治の詩人河井酔茗の平塚たよりの一節「平塚は新しい町だ/間違った伝統を重んじたり/旧いものに囚われたりしていない」とある。他にいい言葉がなかったのか。ここにもやはり詩人の家族が病気療養で移り住んでいる。
 わたしも何か病気療養で来たのか。コロナではなく、それを避けるために、縁もゆかりもない平塚に引っ越してきている。


 松並木が切れるところに湘南海岸公園があるが、プールやテニスコートなどのスポーツ施設があり、芝生の広いところで若いお母さんが幼児を見ながら、シートで寝そべって本を読み、音楽を聴いている。天気がいいときは、日光浴も体にはいい。
 プロムナードの突き当りが134号線で、右、大磯・小田原とあり、左、茅ケ崎・辻堂とある。歩道橋を渡れば、砂防林があり、すぐが平塚砂丘のビーチだ。地元の人も、ここが砂丘とは思っていないだろう。砂浜と砂丘はどう違うの?
 砂の上でラグビーをしていた。ビーチバレーのコートもある。いまは、来月からの海開きのために、ゴミを集めていた。この一年で砂浜に打ち上げられた漂流物と藻屑が山となり、それをブルドーザーがダンプカーに載せる。ということは、海水浴場はやるのだ。期間は短縮して7月半ばからとか。江の島は集客が多いので中止を決めたとか。それもコロナ次第だろう。
 いつもの散歩だが、ごろんとウッドデッキに寝そべって、サーファーたちが横目で見るところで、一人本を読む。ここのところの梅雨の合間の海辺の散歩でだいぶ日焼けした。今年はさらに黒く焼けたい。ウエルダンくらいかな。


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