コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

老後の設計

老後の設計は30歳のときから立ててきた。老後は南の島で暮らそうなと、女房に行ったら、「あなた一人で行きなさい」と、単身赴任しろというような冷たい言い方。女子供は、そんなコンビニもスーパーも、電気もないところで暮らせるかと、そのころは、何かあるとヤップ島で暮らすぞとよく話していた。ヤップはいまから50年くらい前は、電気もなく、車もない、島の長は文明で堕落することを嫌い、原始的生活を求めていた。そこには有名な大きな石のお金がある。あまりに大きく重いので、持って歩けない。金なんかそんなものでいいという古代の人の考えも素敵で、わたしは原始的生活に憧れていたときだ。
 40年前から、雪のない温かい南国の島に移住しようと決めていた。それはやがて、50歳過ぎると本気になり、もう後がないし、10年もして定年を迎えたら、アルカディアで暮らすのだと、今度は海外に旅行すると移住先を探し歩いた。どこがいいのかと。フィリピンにもなかった。インドネシアにもなかった。タイにもマレーシアにもなく、ボルネオ島にもなかった。どこも文明に汚染されていて、車とケータイとパソコンが普及していて、欲望に渦巻いていた。犯罪も多く、あちこちで金を盗られ、危険な目にも遭う。自然の素朴な理想郷はどこにもなかった。
 それでも海外への移住はまだ諦めてはいない。おふくろが生きている間は国内にいるが、それからはどこに行ってもいい。いろんなデータや情報をネットでいまも見ている。どこが一番住みやすいか。
 当分は国内でもいいと、それも暖かい、雪のないところで海の傍と決めているので、千葉の稲毛にも住んだし、いま湘南にも来ている。若いときは、八丈島や父島、和歌山の南なども候補になっていた。
 面白いのが、55歳のときの日記に書かれていたことだ。10年後の自分の姿を描いている。65歳で古本屋はやめて、在庫は全部仲間内のセリにかけてなくすると、わたしは完全リタイヤする。そのときは、まだ息子が後継ぎと青森に帰ってきていないときで、わたし一人で古本屋をやっていたときだ。女房とは家庭内別居状態で、子供らはみんな東京で仕事をしていた。両親も90歳近くなり、そろそろ旅立つことも考えないといけない。女房には素敵な旦那を見つけてやろう。家を売って、身辺整理して、親はご他界するだろうと、そういう計画を立てていたのだが、誤算もある。三男が古本屋の後継ぎで帰ってくる。家は売ったが、おふくろが長生きで、百歳まで生きるとは思いもしない。親父も94歳まで生きた。女房とは離婚したが、古本屋はまだあった。息子に譲ったが、わたしはまだしがらみを背負い、なんとか東京には逃げてきたが、相方という面倒を見る人が出てきたり、また仕事をしなければならなくなりと、南の島は遠くなる。
 思うようにならないのが人生だから面白い。競馬の予想と同じで、みんな思うように走ってくれない。それでもわたしの夢はまだ続いていて、70歳になって、もう老後なのだが、修正しながらなんとか理想に近づけようとしている。
 年金も増えたのは、65歳から70歳まで働いて、年金を掛けてきたからだ。そうでなければ、少ない年金で日本では厳しい。それで物価の安い海外と思ってきた。
 旅でいろんな人と会った。ラオスで同じホステルに泊っていたおじいさんは、ベトナムのハノイで暮らしている。年金は5万円しかないというから、国民年金なのだ。それでもハノイの家賃は1万円で生活費は3万円で足りるという。たまに自分のバイクで東南アジアを走っていると、それでラオスに来ていた。気楽な老後で、日本では5万円ではアパート代で終わるのに、彼は悠々自適な生活を送っていた。羨ましいと思った。どういう仕事をしてきたのか。話の中で、9,11のときにニューヨークにいたという。マンハッタンでビルが倒壊する現場にいたというのだ。世界のあちこちを旅していたじいさんらしい。
 わたしの老後は定着しないで、旅を続けることだとそういまも思っている、だから家賃は安いほうがいい。荷物置き場でトランクルームの代わりにしたい。
 これから平塚駅に行って、大人の休日倶楽部のフリー切符を買ってくる。4日間新幹線も乗り放題で、今月末までには宣言解除になるから、福島、宮城、岩手と震災復興10年目の海辺を歩いてみようと思う。それと7月には宮古島までのフライト往復をLCCで予約していた。安いご案内に衝動的に申し込んでいた。ついで島のゲストハウスも三泊予約した。スキンダイビングに行く。去年は石垣島に飛ばなかったのでキャンセルになったが、今度は飛ぶだろう。そのときまでにはワクチン接種もしているし、老後の放浪が続く。


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