コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

宇宙恐怖症

 誰も普段はこんなことは考えて生活していないが、わたしはふと、夜空を見上げて、無限という不思議の中に生かされていることを怖いと思うのだ。それに気づいてからは、そのことを考えると発狂しそうになる。宇宙はどこまであるのか。科学者たちは、宇宙の果てに行けば、また元に戻るというメビウスの輪のような空間を計算したか想像したか、だけど、誰もそれは見ていない。
 ビックバンで宇宙が形成されたとするが、その前は何もなかったこともないだろう。ガスだけが漂っていても、それはガスという宇宙が存在したのだ。固形だけが形あるもので、それから歴史が始まるということもない。時間はその前からずっと無限に続いてきている。宇宙の終わりもあるという。何百億年か未来に、燃え尽きて終わるのか。ブラックホールに飲み込まれていっさいがなくなるのか。それもまたおかしい。その後は無の世界しかないのか。質量保存の法則からいえば、物質がゼロになることはない。何かに変化するが、ガスに戻ったとしてもガスという宇宙はあり続ける。気体であっても物体であっても、存在することと時間はさらに流れてゆく。
 みんな、始まりがあって終わりがあるという。わたしの前に読みあさった八戸で医者をしていた安藤昌益先生は、250年前に自然真営道という膨大な書物を著して、その中で、天地は無始無終と説いた。世の中には初めも終わりもないと。わたとしもそう思う。どうしてか、旧約聖書にも古事記にもあるし、この世界は神の手で想像されたとある。その前は世界はなかったのか。時間はなかったのか。どうなんだと、科学者と宗教家に問いたい。
 そんなどうでもいい、広すぎる問題に関わることなく、さて、今日のお昼はカレーにしようかなと、そんなことを考えていたら平和なのだ。そうじゃないだろう、われわれがいまいるこの世界が欺瞞なのだ。果てがないというどこまでも続く広がりの中で生かされているんだぞ、おかしいとは思わないのか。時間だって無限だ。過去にも未来にもずっと続く。それを考えただけで、ぞっとする。空を見上げたら吸い込まれそうになる。時間も空間もその端っこを結んで、ぐるぐると回るものにするという帰結で納得できるのか。
 小さいものはそれ以上小さくならないという単位までゆくのか。その粒子を半分にカットしたらどうなるのか。砕けない物質でないものの何かが、機械では見えない。
 逆に大きくしたらどこまで大きくなれるのか。それもまた無限で、太陽系ぐらいの人間がいたら、光の速度で地球から太陽まで8分19秒かかるというが、その巨大な人間にとって指先で弾くくらいの時間だろう。光が時間の速度というのも判らない。
 考えたら頭が混乱してくる。コロナで目先のことばかりくよくよと悩む人は、こういう壮大な難問を考えたらいい。自分の悩みなんか、すごくつまらないものだと思うだろう。そうなれば、巨大地震も宇宙の中ではほんの微動にすぎない。星が消滅するのも日常茶飯事。天変地異もたいしたことがない。
 なのだが、今日の問題は晩飯を何にするかだ。無限に続く食べるという行為も飽きてくる。たまにはステーキでも焼いてみようか。


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