コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

日和自転車

永井荷風に『日和下駄』という都内散歩の随筆がある。江戸がまだ残っているかどうか、地図を手に実証見分するのも楽しそうだ。東京は、関東大震災で江戸がなくなり、昭和20年3月の大空襲で、明治も大正もなくなり、灰燼に帰した。変わりゆく東京を惜しむかのように荷風散人は歩いた。
 わたしも歩いて都内は随分と回った。荷風の通った墨東綺譚の街の近くで働いていたので、玉ノ井は現在は東向島という駅名に変わったが、そこは通勤で使う駅で、荷風の足跡を小説や随筆を読んで歩いた。
 いま、千葉に来て、散歩もあるが、自転車で少し遠く冒険をする。それで日和自転車と書いた。
 最近もいつも通る道ではなく、ちょっと横道に逸れてみようかと、小さな冒険をする。行っていないルートで走る。先日も離れたところにある大きなショッピングタウンまで行ってみた。歩いたこともあるが、この日は自転車だった。ただ、そのまま行くのもなんだと、国道14号線を千葉市街のほうへとどんどんと走ってみた。ビルが見えてくるから、中心地が近いのだが、目的はスーパーだから、と、南へと右折した。ところが京葉線の線路がずっと続いて、その向こう側には行けない。どんどん東に走るが、線路で仕切られて、どこから線路向こうに行けるのか。陸橋はあるが、それは車専用のようだ。人と自転車はどうしたら渡れるのか。どんどんと走っているうちに、千葉みなと駅まで行った。なんだ、近いな。コロナが広がる前、千葉に引っ越してきたばかりのときに、探検だと、千葉駅まで行って、それから市街を歩いた。みなとのほうへ公園があるというので、行ってみた。途中に県立美術館があって、高齢者は無料で入れるというから入ったら、明日からコロナのために当分の間閉館しますと書かれてあった。それからポートタワーにも老人は無料というから登って、港を見下ろした。そのタワーも近くに見えるところまで自転車で来たのだ。JRならわたしのいる町から二つ目だし、京成電車でも四つ目か。
 ようやく右折できたが、海岸に近いところは大きな工場や倉庫ばかりでなんとなく殺風景。山崎製パンの大きな工場があった。確か、去年のクリスマスには、相方がここまで夜勤でバイトに来ていた。わたしにはそれとなく言ったが、横浜にも工場があって、どこでも行く人だった。その工場の先にメトロと大きな看板の巨大なスーパーらしきものがあって、寄ってみたが、一般の人は入れませんとある。業務用の問屋なのだ。見たいが、小売りはしていないのだろう。業者たちがトラックで買いに来ている。
 ようやく目的のスーパーへと辿り着いた。随分と迂回した。面白かった。迂回は愉快だ。スーパーでは前にカードを作らせられたが、そのときの商品券をもらったので、使うために来た。期限があるから、切らしては損だ。大きななんでも売っているスーパーだ。何度か前に来ていた。広いフロアに家電から食品、衣料までなんでもある。体温計もお一人様ひとつまでと、売っていた。五百円もしない。学校では朝晩測っているが、家にはなかった。うちの学校も37.5度以上あると、入れてくれない。熱があればダメなのだ。それで体温計はいまや必需品なのだ。一時どこでも切らしていたが、いまはマスクもダブついて余っている。値段も下がる。わたしはマスクの使い捨てはもうやめた。会社で支給されたマスクはちょうどなくなったので、今度は洗える布マスクにした。三枚で400円とそんなものだ。30回は洗えるとあるから、三枚あれば三か月はOKだ。そっちのほうが資源の無駄にはならない。
 胃薬などもカードで買えば割引があるというから買った。食料もいろいろと買って、背中のバッグはいっぱいになり、エコバッグまで使う。それから帰りもまた違う道を走る。うちから稲毛浅間神社までの道も判った。今年の大晦日に初詣に来てみよう。大きな神社で、うちのベランダから見えている。その裏手に稲毛公園という広い公園がある。前に少しだけ歩いたが、広いからやめたが、じっくりと散策してみたい。そこには千葉市民ギャラリーがあって行ってみたら月曜日は休館だった。入場無料で、日本のワイン王といわれた旧神谷伝兵衛の稲毛別荘で大正七年に建てられた洋館なのだ。浅草の電気ブランの神谷バーの創始者とは知らなかった。この辺りは別荘地と保養地で、いまより海は近かった。ずっと埋め立てられたのだろう。


 永井荷風で思い出して、確か前から寄ってみたかった荷風終焉の地が市川市にあったことを思い出し、仕事帰りに寄ってみた。通勤途中下車で、総武線の本八幡駅近くにあるという。何かと荷風には縁があった。生誕の地の生家跡は、わたしが暮らした小石川にあって、その近くの水道端図書館に自転車で通っていたが、荷風が通った色町の玉ノ井もそうだが、いま、千葉の本八幡駅前に降りて荷風の文学散歩だ。ここはたまに買い物で立ち寄るところで、何度も来ていた。最初に来たときは、駅前のとんかつ専門店でかつ丼を食べた。京成八幡駅のすぐ近くに晩年暮らして終の棲家となったところはあるが、いまは新しい住宅になっていて、隣に歯科クリニックがある。その隣のコンビニも潰れて保育所になっていたり、商店街は荷風ノ散歩道というタペストリーを街灯に下げて町おこしをしていた。亡くなる昭和34年の日乗には、毎日のように昼飯は近くの大黒家という食堂に行ってかつ丼ばかり食べている記述がある。亡くなった日の昼間もかつ丼を食べている。線路際に3年前までは営業していたというが、閉店してからは土地ごと売ったのか、いまは新しい住宅が建っている。そこの名物メニューがかつ丼定食で、荷風セットと言って出していたようだ。時代は変わる。どんどんと古い町は取り壊されて新しくなる。荷風の気持ちでその晩年に暮らした町を歩いてみた。どうして千葉に来ようとしたのか。隣の船橋には太宰治が住んだし、この市川には北原白秋の住んだ寺にも行ったが、他に千葉に暮らした作家はいっぱいいる。総武線で一本で来れるのが昔から東京に出るのは便利だったのだろう。
 さてと、買い物したら、かつ丼でもまた食べて帰ろうか。


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