コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

長谷川太先生の遺稿詩集『私は風のようであった』

 青森の文学仲間の女史から電話をいただいた。滅多に電話などないから、何事かと思った。長谷川太先生の息子さんが頼みたいことがあるとかで、懐かしい恩師の名前を久しぶりに聴いた。なんでも、仏壇の引き出しから、先生が残した詩の原稿が出てきたのだとか。それで、息子さんも定年退職したので、昭和48年に亡くなられた父の遺稿詩集を出版しようと、弘前の出版社に相談に行ったら、出版社の編集子さんが、わたしの昔書いたブログに、長谷川先生のことを書かれていたことが、ネットに出てきたと教えた。それを読んで、なんとか、そのブログの抜粋を詩集の末尾に載せたいと、本人となんとか連絡を取りたいと、それがどうしてわたしの仲間の女史なのか。彼女も顔が広いから、あるいは、ペンクラブに在籍していると知って、連絡してきたものか。とにかく、彼女から電話が来たのが昨年の暮れだった。わたしの電話番号を教えていいかということだったので快諾した。すると、まもなく、長谷川先生の息子さんから電話がきた。懐かしい津軽訛。こちらの言葉も変えないと。すぐには津軽弁に変換できない。
 そのブログは2009年の『古本屋のうたた寝』という、当時は古本屋のおやじで、ホームページに毎日のブログを更新していたときだ。それに書いたのが、「真善美とは 名物先生あれこれ」の中の長谷川先生について書いた部分だった。
と、ここまで書いて、待てよ、これは以前、書いたようなと調べたら、去年の12月にこのブログで同じことを書いている。ボケたかな。


 おふくろの句集が出来上がったのと同時ぐらいで、長谷川先生の詩集ができる。何か互いに親の原稿で作った本で、親孝行なのだろうが、わたしの親は生きている。彼は、若くして亡くなられた父親の記憶が少ないので、いま、それを探しているような気がする。先生の死後、北の街社から出した遺稿詩集の『風の詩』はずっと後になってから、わたしは読む機会を得た。そのとき、初めて先生は詩人であると知った。その詩もいい。今回の遺稿集は二冊目だが、ご存命のときは同人誌で書かれて発表はしていたが、詩集ではなかった。先生が受賞した青森県の詩の賞は、40過ぎてわたしもいただいた。先生の影響で、いまもって56年もヘタな詩を書き続けている。それは先生に感謝しなければならない。老後の暇潰しには、金もかからない、特にこのコロナでは紙とペンがあれば、どこでもいつでも書けるものだから。
 息子さんから送られてきた詩集を読んで、あらためて先生の略歴を知った。黒石市に生まれ、父親の従兄が詩人の一戸謙三であったこと。わたしの同人誌の仲間であった山村秀雄さんとのかかわりもあり、詩人でロシア文学者の工藤正廣さんが、本の序に書かれていたが、先生の従弟であったということも。青森は狭いからなんらかのかかわりはあるが、それにしてもその関係図は意外だった。
 先生の残した詩はどれも甲乙つけがたい秀作ばかりで、根っからの詩人なのだと、その言葉の発想に驚く。最後にひとつだけその詩を転載してみたい。


   橋


 全く われを忘れて 橋は茫然とかかっていた
 斜陽が 汚れた胴体を 花のように咲いていた
 疲れて そこをやつてきた人の足どりは 一様に ひっそりと橋の内部に消えていった
 夕暮れの空へ ぼくらを支えて いつまでも橋は続いた
 ぼくの中で ほつかりと 橋は夢を病んでいた


※『長谷川太詩集 私は風のようであった』北方新社刊



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