コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

自撮りはしなくなった

自撮りがいまは普通になったが、いまから15年前までは、それは恥ずかしいと、わたしは人が見ていないときに、片手にデジカメを持って、自分を風景の片隅に必ず入れて撮っていた。それを旅行から帰ってから、息子に見せたら笑うこと。どの写真にも、ひょっこりはんのように、ちらりとわたしの顔が出てくるのが可笑しいと。それで、自己弁護で、ただの風景写真は撮らないのだ。それなら絵葉書を買ったほうが綺麗だろう。写真というのは、その場にいたといいう証拠であり、そこにいた自分の顔から年と表情が読み取れるからいいのだと、たとえ話もした。エベレストの山頂に単独校で登頂したとき、自撮りしなければ、登ったという証明にはならない。そのために、山や海だけを写すのではなく、必ず、自分を参加させるのだ。

 それでもせっかくのいい景色がおやじの顔でだいなしだと笑う。そうかもしれない。顔がないほうが美しい風景だけでもいい。そこに疲れ切った、汗まみれのメガネが半分ずり落ちているげんなりした顔があったりすると、それは笑える。

 誰かいると撮ってもらうこともある。向こうから、撮りましょうかと、言ってくる親切な人もいた。綺麗な女性であれば、ご一緒にとツーショットもしてみたい。

 どんなデジカメでもセルフタイマーがある。それで、わたしはよくセルフを使ったが、それは、タイミングの問題もあり、どの写真も、カメラを直しに傍に寄ったときだとか、慌ててカメラの前に走って行った姿だったり、顔が切れていて、醜い腹だけが写っていたりと、うまく入らないのが多かった。

 それからまもなく、自撮りという言葉が流行して、そのためのカメラやスマホを取り付けるアームみたいなものが売られた。みんな手にしていた。いまや百円ショップで売られている。それで撮っている人も珍しくなく、恥ずかしいこともない。彼女と二人でカメラに入る。人に頼むほうが恥ずかしい。いいものが出たと思ったが、わたしはいまも持っていない。もう、自分を写真に入れることはやめたのだ。

 ビデオも旅行では撮るが、そのときは、場所の解説をしているのがわたしなのだが、最初に何月何日でどこにいるのかということを言って、それが記録になる。でなければ帰ってから編集したり、タイトルやキャプションを入れたりという面倒なことはしたくない。第一、ビデオはマイクロSDカードに撮って保存したままとする。見たいときは、そのまま見ることにし、ビデオ編集ソフトにはかけないことにした。かけたら、それがいずれOSが新しくなって、古いバージョンが開けないとか、パソコンがどんどんと新しいものに取り換えたとき、再生ができないということになるから、録画したままで見られる保存形式にした。

 そのビデオでは、一応、登場人物はいないが、自分が撮影していると、ちらりと自分自身の顔だけは見せる。それからは風景の説明で声だけは入ってる。

 画像の場合は、日付も入らないし、どこか場所が特定できないが、最近は自分をいれないで、ブログや詩をアップするときに、それに関した風景を添えるときに使うので、何枚かは撮って、その中から選んでいる。写真と文と一緒に残すことにした。

 デジカメは買わなくなる。スマホで十分だ。いまのスマホはカメラがよくなった。編集ソフトも入って、1200万画素は最低だし、プリントしても綺麗になった。みんなスマホで撮っている。デジカメは売れなくなったろう。それでもさらにいいカメラを持っている高齢者たちは、花や鳥を撮ったりと、芸術的な趣味の分野でサークル活動なんかしていると、それはそれでスマホでは物足りないのだ。

 自分をいれなくなったのは、一人になって、誰にも見せることがなくなったら、必要を感じなくなったからだ。それまでは家族がいて、連れ合いがいてと、誰かいたから、写真もよく撮ったし、自分も入った。それが面倒くさくなってきた。自分だけの思い出でいいと、印象的な旅の風景を撮るようになる。一時は、インスタグラムでも旅行の写真を公開していたが、誰も見ないし、どうでもいいと、やめてしまう。人に見せてなんになる。仲間うちなら、どれどれと見ることもあるが、別にどうでもいいやと、記録として残したいとも思わない。世の中はそれでなくても情報過多で、画像だけでも溢れかえっている。インスタグラムも見て、見てと氾濫しているので、加熱してきて、youtubeなんかでは異様な行動で注目を浴びようと、犯罪めいたことまで出現してきている。

 いま、昔のわが家のアルバム写真だけでも5千枚は選別して保存してあるが、それに加えて、自分の写真も最近のものが増殖しつつある。ビデオもそうだが、あまりにも多いと、誰が見るのか。身内でも見ないだろう。見ていて自分でも飽きてくる。

 それだから、写真はただの添え物として雰囲気だけで使っている。あるときから、家族が写真から消えて、途中から入ってきた連れ合いもいなくなると、自分一人では自撮りするのは、これから使う遺影のためだろうか。いい写真は黒枠で使う一枚だけでいい。

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