コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

教会に通っていたころ

このブログが公開されるときは、もう仕事は辞めて、わたしは大学の門を潜ると、二度と入れなくなる。制服もきちんと畳んで袋に入れて返した。保険証と身分証は月末まで在籍があるから、それは本部へ郵送する。月末まで有給休暇で埋めている。全部残りを使い果たして辞める。

 それで、最後の学校の巡回で、いつものように朝晩に教会の礼拝堂も見回る。この学校はミッションスクールだが、プロテスタントなのだ。祭壇は質素で、十字架にはキリストが磔にされていない。マリア像もないし、聖母の肖像画も飾られていない。実にシンプルでいいが、わたしが子供のときから通っていた教会とは雰囲気が違う。

 パイプオルガンも大きいのがでんとある。外人の修理屋さんたちが年に何回か来るが、ピアノの調律師というよりは、機械設備の修理工という感じで、パイプを一本ずつ32本ある太くて長いのを全部外して掃除したりしているのか。それに四人の外人が五日ぐらいかけていた。初めて、バラすところも見たが、大掛かりなものだ。

 音楽の先生は三人いるが、全員、パイプオルガンを鳴らせるわけでもないだろう。大学の学生と先生がたまに練習に来たりしていた。

 夜に誰もいない礼拝堂の裏側の小部屋なども懐中電灯を手に見回るとき、敬虔な気持ちは別にない。仕事だから、窓やドアの施錠確認と電気の不点灯のチェックなどだ。

 わたしが出た幼稚園はカトリック系の幼稚園で、教会があった。小学生のときに洗礼を受けたが、ずっと通っていたのは、スペンサー先生というカナダの宣教師さんが、子供たちに木曜日にのぞみの会という英会話教室を開いて無償で教えていたからだ。それと日曜学校と週に二回は教会に真面目に通った。日曜学校は、礼拝の後に、子供たち数人を集めて、執事さんが聖書の勉強会を開いた。小学生だから、遊びながらやっていた。洗礼はうちの姉妹二人も受けた。わたしの名づけ親は、園長の藤林先生で、ペテロとつけてくだすった。キリストの12人弟子の中の最年長で、ガリラアで漁師をしていたが、キリストに「人をとる漁師にしてあげよう」と、ついてゆく。ペテロとは岩という意味のようだが、わたしもどこか似ていて、そんな精神力も強くなく、いつも言い訳と嘘をついた。キリストが捕まったときに、ペテロは弟子かと問われて否認を三度する。そのときに鶏が鳴くだろうとキリストが予言を言い渡した。石ではなく、意志の弱さがわたしにもある。それだから、ペテロと名付けられたのは、藤林先生がわたしの子供時分から性格を見抜いて付けたのではないのかと思った。

 ペテロは初代ローマ法王として、バチカンに祀られた。イタリアを一周したとき、バチカンに寄って、その像の足を信者たちが撫でて、すり減っていたが、わたしも同じようにして撫でた。


 高校と大学時代にも教会には通っていた。社会人になったときも、仕事が忙しくなったから行かなくなったが、若いときは通いつめていた。行かなくなって久しく、藤林園長が亡きあとの後任の姪が後継ぎになったが、彼女がうちの古本屋に顔を出すと、教会にまたいらっしゃいと誘いにきたことがあった。子供のときから親しかった人だ。「いまは罪深い人間なので、畏れ多くて礼拝堂に入れない」と冗談のように言ったら、「そういう人こそぜひ来ていただきたいわ」と、言って、なんだか懐かしい日曜学校を思い出した。

わたしが晩生なのは、その若いときの信仰があった。そのせいで、ずっと結婚する相手まで女を知らず、恋愛では失敗ばかり。汝姦淫するなかれと、思ってもいけない潔癖さが女性に対する免疫性をなくしていた。それが人生の入口で失敗の要因ともなる。

 いまは無宗教で信心もなにもないが、教会の雰囲気は懐かしい思い出の中にある。教会の行事も同じだった。コロナで二年越しにやらなくなって寂しいが、復活祭のイースターエッグもあったし、過ぎ越しの祭りの棕櫚の葉も懐かしい。収穫感謝祭も去年は、この学校の子供たちが家庭から持ち寄って祭壇に捧げた果実をわれわれもいただいた。仕事では出入りする教会に、これからは私的に入ることもないだろう。学校を去る日の朝、いつもの時報代わりの教会の鐘が鳴っていた。

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