コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

母元気だね

 今年百歳で青森の施設にいるおふくろに、毎年のように母の日を送る。青森で一緒に暮らしていたときは、贈ったことがない。姉妹からは来ていた。おふくろに言わせたら、おまえは一緒に暮らしているだけで親孝行だと、別にいらないという言い方だったから。どうも、母親なのだが、一緒に暮らしていたときは、うざかった。書き物をしているときでも、わたしの部屋に入ってきて、ごちゃごちゃと邪魔をして話すので、どこかへ行ってくれと、すっかりと嫌になる。親父が死んだら、きっと寂しいから話し相手に自分に向かってくるなとは予想していた。それが本を読んでいるときも、新聞を読んでいるときでも、テレビでニュースを見ているときでもおかまいなしで、横からお喋り。うるさーいと叫びたかった。ボケてはいないのだが、口だけはボケて、機関銃のように言葉の弾が飛んでくる。よく疲れないなと思うほど、いつもそうなのだ。それで嫌気がさしていたころに、妹が、施設に入れることを提案した。わたしの気持ちもわかり、息子が母親の介護も大変だろうと、風呂に入れられるわけでもなく、まだ大丈夫だが、下の世話もできないだろう。それで、わたしは掃除と炊事だけはしていた。おふくろは、そんなわたしの気持ちを知って、わたしが東京に出稼ぎに出る年の元日に、「施設に入るよ」と、ようやく言ってくれた。それを妹に話したら、気が変わらないうちに善は急げとばかり、二つの近くの施設を見てくる。遠い親戚が経営しているいまの施設に入ることになり、そのときの妹の活躍ったらない。2月にはもう入れてしまう。ワンルームのバストイレ付の部屋で、各階に食堂があり、一階にも大きな食堂がある。以前は六ケ所村の原燃関係の社員寮であったところを地元の建設会社が買って施設にした。だから、広い。ジムもあるしゴルフに打ちっぱなしもある。テニスコートもあり、大浴場はプールのようだ。エントランスホールも広いし、ギャラリーや喫茶室もある。青森で一番大きいかもしれない。
 年金は多いから、そんな施設にも入れる。保証金もなしにして、わたしの年金では入れないが、おふくろもかつては中小企業の常務で、長く勤めていたので、役員報酬は、わたしの倍はもらっていた。それで年金も多い。わたしは何年か、年金に寄生して暮らしていたいわゆるパラサイトシングルというやつでいた。おふくろと暮らしていた妹の亭主が持っていたマンションを引き払い、わたしも行くところがなくなったので仏壇と一緒に古本屋ビルの一階の事務室が空いていたので、そこにソファベッドを置いて、仏壇の横で寝ることにした。別に店舗の奥に流しがあって、冷蔵庫とオーブンレンジがあったので、そこで煮炊きはできたので、暮らせることになる。家賃と光熱費はかからない。60歳過ぎたばかりで、まだ年金は満額いただいていないときで、息子からは給与もなく、ボランティアで4年働かされた。東京に出てきてからも、家賃は息子が古本屋の東京出張所ということで払っていたが、年金4万もなく、それで生活していた。


 それから7年が経つ。おふくろの母の日と誕生日、年末年始にとあれこれと贈ることを考えたのは相方であった。嫁ではないが、気がきいたものをいつもネットで調べて注文していた。相方と別に暮らすようになってからも、今度はわたしが送る。何か、ふるさとは遠きにありて思うものと同じで、おふくろも遠きにありて思うものだ。一緒に暮らしていたときは、嫌で嫌でたまらなかったものが、離れて暮らして7年経つと、親孝行もしたくなるのが不思議で、いまは3日に一度、せっせとラブレターも書いている。
 わたしはマザコンではない。おふくろと逆のタイプの女性が好みで、それを連れてくるから、いつもおふくろと嫁はぶつかる。二度目のかあちゃんとおふくろはやりあって、嫁を叩き出した。確かにおふくろの言うほうが正しかった。それでもわたしの連れてきた嫁なので、最後まで擁護はしないと。別居していたが、その住まいもわたしが用意した。向こうから離婚届を送ってきて、また、他に好きな人もできたようなので、わたしはハンコを押したときは、すっかりと冷めていた。
 そんなで、おふくろと嫁の間でよくおふくろと喧嘩もした。早く死ねと暴言も吐いた。自分の親が老いる姿はとても見ていられなかたこともある。いまはよぼよぼでようやく生きている。歩行器がないと歩けないし、外にも出られない。コロナで面会は禁止が続いているので、わたしは青森に二年以上帰っていないし、最後におふくろの施設で会ったのが一昨年の三月だ。電話は週に一度はおふくろから来る。前は同じauにして家族なのでいくら話しても只というのに入っていた。まは、10分以内なら話し放題のプランで、それで近況報告をしている。手紙も百通は超えたろう。旅先からパンフレットを入れてやったり、スマホの写真をプリントして同封したりと、お互いに退屈しのぎに手紙を書いたり読んだりしている。
 母の日といってもどうもピンとこない。ババの日のほうが合う。敬老の日はまた違うのだ。百歳で母というのもイメージは違った。それでも施設に閉じ込められて退屈しているだろうからと、花がガラス容器に入ったものとフィナンシェなどのお菓子のついたプレゼントをネットから送った。いまのところは病気もなく、元気だ。長生きの家系だから、みんな90歳以上まで生きている。わが家の最高記録を目下更新中で、わたしもきっとそれぐらい病気をしないと生きられるのかと思う。
 わたしの書いたくだらない手紙でよく笑う。電話がくると、そのことで笑う。ハハハ元気だね。


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