コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

憶えず忘れることのみ多かりき

誰でも年とともに暗記力はなくなる。あたりまえのことなのだが、それが仕事の場となるとそうも言っていられない。いま学校で働いているが、先生たち60人、職員さんやスタッフでそれぐらいいるが、そのうちの半分も名前を憶えられないでいる。1年半も勤めていて、いい加減に憶えろよと言われそうだが、いまだに、どちらさんですかだ。相手に失礼だろうし、この人、何年いるの? とか、大丈夫? と思われているかもしれない。先生たちの顔写真と名前のリストがいつもデスクの引き出しに入れてあり、入ってきたときに、誰だったかと、照合する。それを毎日繰り返していても、憶えられない。印象深い先生ならすぐに憶える。特徴のある顔とか背丈があるとか、ユニークなメガネをかけているとか。それと、綺麗な先生。児童は見ていても可愛いとは思わないが、先生は可愛いと思うのは、まだまだわたしも捨てたものじゃない。
 若いときの記憶力はすごい。よく言うのが海綿体の、水分のように吸収するのが早い。22歳のときに、大阪の量販店に就職したとき、堺市にあった店に配属された。そこでわたしは一週間で160人働いている社員やパートさんたちの名前と顔を憶えてしまう。それが溶け込む一番の方法と、意識的に暗記した。そうしたら、すぐに職場の人気者になる。新入社員で一番早く名前を知られた。そのようにしたほうが仕事はしやすいと何かの本で読んだから、仕事を憶えるのは当然だが、仲間の名前を憶えることに専念した。友達がすぐにできた。東京にいた学生時代は引きこもりで友達もいなかった。そんな暗い自分を東京に捨ててきて、がらりと変身させたのだ。だから、少し人より晩いが、大阪がわたしの青春の地になる。


 歌謡曲でも若いとき、子供のときに憶えたのは、三番までいまでも歌えるが、いま、新曲を憶えようとしても、三番の歌詞まで見ないで歌えるようになるには、一か月かけてもできないだろう。それほど暗記力が落ちている。
 憶えることも老人には大変だが、忘れることもまたひどい。一昨年まで働いていた南青山のマンションの仕事仲間の顔は思い出すが、名前はすべて忘れている。誰だったかと、思い出そうとしても出てこない。銀座のビルで働いたのも一昨年のことだが、名前が出ない。隅田のオフィスビルで警備員をしていたときもたった二年前のことなのだが、名前だけが出てこない。全然親しくもない上司でなかった大林組の所長の名前だけが出てくるのが不思議だった。
 あれほどパワハラを受けた清掃のときの先輩の名前も出てこない。それは四年前のことだが、どんなに親しくして、毎日顔を合わせていた人でも、名前を忘れるのだ。
 10年前のことは忘れないで、名前が出てくるのは、60歳の年ではまだ記憶が取り出せるのだろうか。青森の友達、文学仲間、古本屋のお客の名前は顔と共に出てきて、いまだに憶えていて忘れないのは、どうしたことなのか。その前に至っては、菓子屋のときの関わりのある人たち、社員の名前も忘れない。親戚も忘れない。自分の憶えている範囲と時間を紙に書き出してみたら、直近のことが忘れてしまうようだ。特に、ここ7,8年から最近までが怪しい。ということは、脳の老化はずっと前から始まっているのだろうが、顕著になったのが63歳辺りからなのだ。それは自分で定年退職と勝手に決めて、古本屋の仕事を手伝い、仕事を半ば降りたときからボケてきている。東京に出稼ぎに来てからも、それはだんだんとひどくなる。それでも刺激を求めて、故郷にいるよりは、目まぐるしい都会は脳を活性化するとは思うが、今度はころころと環境も仕事も変わりすぎるから、憶えきれないないのだ。ずっと変わらない環境にいれば、側近の人たちの名前を忘れることはないのだろうが、過ぎ去る者の名前が出てこないのは、自分の中で消去しているからだろう。いまもずっと交際が続いていれば忘れないが、次々に入れ替わるのが上書きされている。
 本も忘れるから読めるとある人が書いていた。読んだことを全部憶えていることはない。読んだことのある本でもまた借りてきて読んでいて、途中で気が付く。それも多読だから、そういうことが起こる。タイトルも作者も忘れているのに、内容は憶えている。ボケでも内容は忘れないのだとか。それなら老後の読書も悪くはない。
 死んだ親父は、次々に名前を忘れて、死ぬひと月前に同居しているわたしの名前を忘れ、息子ということも忘れ、最後の数日では、おふくろも忘れられた。とうとう忘れられたとおふくろは泣いていた。あんた誰?と、親に言われるショックは忘れない。わたしもそうなる日が来るのだ。みんな忘れて死ぬのがいい。死ぬことも忘れているから。それが幸せなのだろう。

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