コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

遠足も雨でかわいそう

 学校では遠足がある。都会だから、遠足とは歩くものではない。交通事故も怖いし、先生たちが歩いて連れてゆく範囲も限られている。それだから、遠足といっても、日帰りバス旅行で、近県に野外授業のような見学に行くのだ。
 学年別に日にちを変えて、2年生だけ、この日はバス4台で、千葉の館山に行く。内容を見たら、農業漁業体験学習で、千葉県だから、特産の落花生と芋堀はさつまいもか、その収穫の手伝いだ。それと、漁港に行って、魚の荷揚げとセリと流通を学ぶのだろう。それも雨でどうなるのか。合羽を着て7時に学校からバスの待機している大学のほうへとみんな歩いてゆく。わたしは、それを見送る。行ってきまーすと、元気だが、残念な雨だ。
 翌日は5年生が、雨だから、予定変更して、埼玉県の平和記念の施設見学と、建物の中だから、雨でもいいところにバスで向かい、昼飯もどこかで食べて、帰ってきたのは午後2時ころと早い。きっと遠足としてはつまらなかったろう。
 東京の子供たちは、郊外にもいろいろと見るところはあるから、行くところはいっぱいあって楽しめる。が、歩いてはゆけないのが本来の遠足という足を鍛えるための遠出ではないのだ。


 わたしの子供時分は田舎だから、バス遠足もあったが、自然が郊外にはいっぱいあるから、歩かせられた。
 小学1年のときは、青森市の海浜公園の合浦公園まで往復歩いたが、往復5キロくらいであったか。そこは芝生もあり、お弁当を食べる場所はいくらでもあった。小動物や鳥などの小さな動物園もあり、池にはメダカや鯉が泳いで、白鳥もいた。いまでも大人も楽しめる四季折々の花が咲き、いいところなのだ。夏は海水浴場で砂浜が広がる。
 小学2年のときは、少しそこから先に行った種畜場という、八重田というところ。いまは牛や馬に種つけするところはなくなり、牧場もない。そこは県立中央病院がいまは建っている。わたしらが子供のとき、昭和34年ころは、郊外には牧場がいっぱいあった。旧市街から少し出たら、田圃畑で、現桜川団地も昔は田村牧場とかいった。佃といういまは家がびっしりと建っている住宅地には、戦後まで競馬場があった。いまは、その馬場のコースが道路として残っていて、車で走ると楕円形になっている。
 青森市も東北本線が南方移転するまでは、なくなった浦町駅や浪打駅などがあって、国道4号線と並行して線路があり、SLが煙を吐いて走っていた。浪打駅で降りると目の前が合浦公園で、泳ぎに行くときは、青森駅から汽車に乗って二つ目の駅で降りたものだ。
 小学3年のときは、稲山という小さな山が青森市の東嶽のほうにあり、そこまで歩いた。往復10キロ以上はあったろう。草原と森林で、虫を捕ったり、草原を走り回って遊んだ。
 小学4年からバスになり、少し遠くへと行ったが、夏泊半島一周した。大島が先っちょにあるが、そこで弁当を開いて食べた記憶がある。大島は江の島と同じ陸繋島で、灯台のある無人島だが、いまのような橋はなく、大きな石が渡れるように並んでいた。干潮のときは渡れるが、満潮になると石も隠れて、戻ってこれなくなる。大島には野生の馬がいた。下北の寒立馬もそうだが、あの馬は誰のものだったのだろう。
 小学5年は、バスで八戸まで行った。種差海岸にも馬が放し飼いにされていた。いまは三陸国立公園に含まれるようになったが、以前は県立公園で、三陸の北の端にあたる。海岸美がすばらしい風光明媚なところで、いまも人気スポットだ。
 ここまで書いて、遠足というのは、春と秋の二回あったのではないかと、思い出した。まだまだ行ったところがあったからだ。1年のときは、スキー場の雲谷までバスで行っている。その写真も残っている。それが秋というのは、スキー場のゲレンデにアケビがいっぱい成っていて、みんなで採った記憶があるからだ。近年、それを思い出して、雲谷のいまはコスモス畑になっている辺りを歩いたが、アケビはひとつも見つからない。植生も60年以上経つと変わるのだろう。
 それと、何年か忘れたが、雲谷から八甲田山へと向かう途中にある萱の茶屋という草原にも行ったことがある。5年生のときは八甲田登山で山頂にみんな行っていたが、わたしは登っていないのは、あれは有志だけであったのか。
 林間学校は津軽の南の碇ヶ関の温泉保養地であったし、修学旅行は函館湯の川温泉一泊で青函連絡船で行った。
 してみれば、青森も行くところはいっぱいあった。都会の子たちが羨ましいとは思わない。それでもいまはコロナで、ひとつのバスも半分ずつ乗って、隣りあわせにできず、お話もしてはいけないし、手を繋いで歩けない。窮屈で、しかも近場ですぐに帰ってくる遠足は楽しさ半減。コロナ時代の子供たちとそのうち呼ばれるのだろうが、それに追い打ちの雨もあって、かわいそうすぎる。


×

非ログインユーザーとして返信する