コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

がらがら

 緊急事態宣言が出されなくても、すでに死んでいる街区がある。それが宣言が出されたら、さらに人が歩かない。わたしは、地方都市で生まれ育ったから、がらがらは普通だった。田舎の商店街はもとより人通りがない。日曜の昼間など、田舎の町に行くと、人も車も通らず、ゴーストタウンになっている。商店はあるが、日曜日が定休日が多く、日曜はその辺に住んでいる住人たちも、車で離れたショッピングセンターへと買い物に出てしまうので、地元の店は日曜は逆に商売にならない。青森市のように県庁所在地でも、中心商店街の空洞化は、昔の市長が提唱していたコンパクトシティの構想を推進したくてもできずに、街はどんどんと郊外へと延びて、ライフラインも整備が大変だ。大型商業施設が郊外にどんどんと張り付くと、路面店舗で全国チェーンが並んでくる。どこの都市でも似たような郊外の顔になってくる。そうすれば、ますます中心地には客が来なくなる。日曜が一番暇となり、駅前から歩いても、死んだような街で、どこもがらがらなのだ。
 毎年、通行量調査をしても、中心部は人通りが減ってくる。車社会は都市の景観も変えた。中心部にあったデパートがこの半世紀で4店も閉めた。いま残りの1店が頑張っているが、お客は入らないでよくやられている。パチンコ屋も映画館もホテルもどんどんと閉めて、貸店売り店ばかり。歯が抜けたようになっている。
 田舎ではいつも見ている街の構図が、まさか東京にはないだろうと思っていたら、このコロナで、似たような風景が現れて、なんだか田舎を思い出した。
 この一年でも、あちこち行ってみて驚いた。何か月か前に、二人でカラオケに行ったら、客はわたしらの他に1組よりいないで、がらがらであった。それで昼間の時間だったが、ドリンクバーがついて一人千円もしないで何時間か歌ってきたが、カラオケも感染すると敬遠されているのが判る。一人カラオケというのはいいのではないのか。個室に一人よりいないし、いくら歌っても飛沫を飛ばしても関係がない。それもダメというのであれば、どこからでこまでが安全なのかと線引きもいい加減なものだ。
 すべてがそうで、居酒屋も個室のあるところがある。団体で飲むのはいけないが、一人居酒屋で個室ならよさそうなものだ。
 千葉県の文書館もコロナの自粛で休館していた。ようやく開いたので、行ってみたが、そこには職員さんが一人だけいた。客はわたし一人だけ。普段からそうなのだろうが、そういう施設は別に休ませなくても、いつも暇で開館休業みたいなものだから、休館措置はいらないのではないかと思う。何から何まですべて公共施設は休みだというのがおかしい。
 公園も休んだ去年の第一回目の宣言のときは、公園なんかいいだろうと思った。海もそうで遊泳禁止。海水浴も密にはならないだろう。人との距離はありすぎる。それがダメで通勤電車のラッシュはいいのかとなる。
 美術館も博物館も企画展によっては人が集まるが、常設展はがらがらだ。あまりに人が来ないので閉めてもいいかというようなものか。先日も千葉市の博物館に入ったら、客はわたしらの他に一人よりいなかった。それを閉めることはない。
 可哀想なのは飲食店だ。ららぽーとに行ったとき、あの広いショッピングセンターの広いフードコートに食事をしているのが二人よりいなかった。これではどこも商売にはならない。それは平日の午後でランチタイムから少し過ぎていたが、それでも二人はない。何百席とあるフロアでそれで、テナントで入っているレストランなどは、客の姿がなかった。みんな自粛して入らない。家で食べようと、スーパーの弁当売り場は売れている。わたしもあまり外食はしないのだが、あまり入っていないと、食べようかと入ってみたがる。ちゃんと席は一人ずつ仕切られて、窓とドアは開けて換気をよくしているのに、それでも客は少ないのだろう。
 観光地も悲惨だった。この一年で8回くらい国内旅行をして温泉場に泊まったりしたが、どこもがらがらで、閑古鳥が鳴いている。土産店も開店休業状態で、温泉街は人も歩いていない。この前の修善寺の旅館は、わたしの他に客は一人だけ。大阪も京都も松山も白浜温泉もどこもそうだった。ひどいもので、まるで戦災に遭ったようなものだ。丸焼けに等しい。化野から嵐山までのかつては外人たちでひとしめきあっていた観光地も、向こうが見えるくらい人がいないで、店はほとんど閉めていた。
 コロナが続けば、この国の経済は大変なことにるだろうが、それはじわじわと悪化していて、いきなり奈落に落とされるかもしれない。店も通りも街もがらがらなのだが、経済ががらがらと瓦解する音にも聞こえるのだ。

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