コロナノコロ

コロナ生活から思うこと

ソロが流行る

 ソロという言葉がつくのがいまは流行りのようで、グーグルで検索すると、ソロキャンプから、ソロ活、ソロストーブなどが出てくる。シングルという言葉よりは恰好いいのか。
 わたしもソロソロソロ生活を本格的に考えないといけない。スーパーに買い物に行っても、一人であることを忘れて三人分の食材を買ってくる。実際、それが最小ロットであるかのように、魚の切り身も肉も三人分以上で売っている。売るほうとしては、まとめて買ってもらったほうが楽でいい。だけど、牛丼を作ろうと牛肉の切り落としのパックを見たら、一番小さいので400gだった。後は1キロ近い。100gでは買えないのか。肉屋さんが入っているスーパーでは量り売りで100gでも売ってくれるのでいいのだが、それを買っても、使うのは150gぐらいで、後は生肉なのに、冷凍してしまう。魚もそうだ。なんでも冷凍したら鮮度は落ちるし味もだ。
 それだけでなく、大根もキャベツも白菜も半分とか四分の一とか買うと高くつく。かといって、この前、平塚の八百屋で、大きな大根とキャベツとレタスが三個で100円は激安だと買ったら、朝昼晩、毎日何日も野菜だけ、ウサギ年のわたしは食べなければならない。そういう生活を続ければ、耳が長くなり、目は赤くなるのが怖い。
 前に女子力ということが頻繁に言われて、「力」がつけば本も売れて、流行語になる。老人力もあったし、消臭力というのも売られている。それは違うか。品格が流行ったときもあった。なんでも言葉はそうして後を追う。言葉はますます軽薄になる。
 ソロというと、クラシックファンのわたしは、ソリストを思い浮かべる。独唱とかsoloはイタリア語だ。独奏曲もある。無伴奏の曲は一人でステージに立つ。Bachの無伴奏チェロ組曲を2時間近くずっと奏き続けて、聴衆を圧倒させ、曲が終わって、さっさと舞台裏に引っ込んだときも、唖然として拍手がなかったという名演奏もあった。本当に感動させたら、拍手も忘れさせる。


 ソロキャンプは、独身時代にはしていた。テントを持っていて、寝袋とシートの三点セットでサラリーマン時代もよく担いで行った。能登半島を一周したときは、まだ6月であったが、誰もいない恋路海岸近くのキャンプ場に一人テントを張った。固形燃料やコンロというものは持たないので、原始的キャンプで、石で竈を作り、薪もなく、枯葉や枝を集めてきて火をおこした。小さな鍋ひとつあればなんでもできる。職場の女の子が、一緒に行きたいと言っていたが、ただの旅行ではないし、よく歩くので、悲鳴を上げるのが判っていた。そんな寂しいところで寝るのは怖がるだろう。足手まといになるので、いつもソロで旅行をした。山登りも単独行であったし、海外旅行も女房を連れて行ったのは一回きり。文句ばかり言うので、それからは二度と連れて行かなかった。一人旅のほうが気楽でいい。相方と東ヨーロッパや東南アジア周遊をしたときも、よく喧嘩した。その時の日記を見たら、何度も異国に捨てようと思ったことが書かれている。
 どこに寝ても、何を食べても文句の言わない人ならいい。それでも面倒くさいのはお互いに気を遣うからだ。
 ヒロシがソロの火付け人だろう。キャンピングカーも流行る。それはコロナでますますだ。5年前に大井競馬場で、キャンピングカーの展示会をやったときに二人で見に行ったことがあった。そのときはまだブームがいまほどではなく、車も高かった。いまは、安いものが出てきて、軽トラの上に載せる上だけが99万円で売られている。軽トラの中古を10万円で買えば、110万円で二人は寝られるキャンピングカーが持てる。近い将来は、いよいよ定住せずに、それで全国一周を2年くらいしてみたい。それは前々からの計画であった。マンションを借りる家賃でガソリン代や維持費は出るだろう。それで、ソーラーパネルも随分と調べた。それもだんだんといいものが安く売られてきた。
 映画でいま上映している「ノマドランド」は、漂流する高齢労働者というタイトルだが、キャンピングカーで主人公は放浪する。わたしの見たい映画だ。働くことはしないが、車で移動生活というのに憧れる。何をするにも年がある。いまのうちなのだ。ボケて逆走しないうちに実行しなければ。


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